政談 / 地子錢の事
京江戶大坂伏見なと地子錢を出さぬこと古法に違ふことなり、田舍の地には年貢を出さゞる地なし、都も古は斯の如し、百姓ばかりより年貢を取て、町人には取らぬは如何なる故によりて、町人のあいしらい箇樣に結搆なることぞや、此起り明智日向守より起る、其の惡例を大閤用ひ玉ひて、大坂にても取られざるより江戶も其の通りになりたりと見えたり、明智は主君を弑したる人なり、信長公は御當家の御味方なり、然るに萬代までも明智か恩德を人に有りがたからすること如何なることぞや、又人夫を出たすに田地の高にて出すこと無理なり、田地よりは年貢を出す故外に何も出すべからず、二重に取るは脇道なり、是は百姓の仲間にて年貢にても運ぶは手前より運ふことなる故、年貢米の多少に應して割合はせするによりて、田地の高に應して人夫をあつることのあるを混して公儀よりあつる夫も其の法を用ひたるなり、公役の夫は人の數にて男子の二十才より五十九才まての男子を、一年に三ケ日に使ふこと是古聖人の法なり、唐朝租調庸の法は又別なり、日本の古は唐朝の法を用ひたり、されども其の時は十分一の年貢なり、今年貢の高く成りたるは租調庸を一つにして米にて取たるなるべけれは、古の租調庸の法は用ひがたかるべき也、
新字:京江戸大坂伏見なと地子銭を出さぬこと古法に違ふことなり、田舎の地には年貢を出さゞる地なし、都も古は斯の如し、百姓ばかりより年貢を取て、町人には取らぬは如何なる故によりて、町人のあいしらい箇様に結搆なることぞや、此起り明智日向守より起る、其の悪例を大閤用ひ玉ひて、大坂にても取られざるより江戸も其の通りになりたりと見えたり、明智は主君を弑したる人なり、信長公は御当家の御味方なり、然るに万代までも明智か恩徳を人に有りがたからすること如何なることぞや、又人夫を出たすに田地の高にて出すこと無理なり、田地よりは年貢を出す故外に何も出すべからず、二重に取るは脇道なり、是は百姓の仲間にて年貢にても運ぶは手前より運ふことなる故、年貢米の多少に応して割合はせするによりて、田地の高に応して人夫をあつることのあるを混して公儀よりあつる夫も其の法を用ひたるなり、公役の夫は人の数にて男子の二十才より五十九才まての男子を、一年に三ケ日に使ふこと是古聖人の法なり、唐朝租調庸の法は又別なり、日本の古は唐朝の法を用ひたり、されども其の時は十分一の年貢なり、今年貢の高く成りたるは租調庸を一つにして米にて取たるなるべけれは、古の租調庸の法は用ひがたかるべき也、
書き下し
京江戸大坂伏見なと地子銭を出さぬこと古法に違ふことなり、田舎の地には年貢を出さゞる地なし、都も古は斯の如し、百姓ばかりより年貢を取て、町人には取らぬは如何なる故によりて、町人のあいしらい箇様に結搆なることぞや、此起り明智日向守より起る、其の悪例を大閤用ひ玉ひて、大坂にても取られざるより江戸も其の通りになりたりと見えたり、明智は主君を弑したる人なり、信長公は御当家の御味方なり、然るに万代までも明智か恩徳を人に有りがたからすること如何なることぞや、又人夫を出たすに田地の高にて出すこと無理なり、田地よりは年貢を出す故外に何も出すべからず、二重に取るは脇道なり、是は百姓の仲間にて年貢にても運ぶは手前より運ふことなる故、年貢米の多少に応して割合はせするによりて、田地の高に応して人夫をあつることのあるを混して公儀よりあつる夫も其の法を用ひたるなり、公役の夫は人の数にて男子の二十才より五十九才まての男子を、一年に三ケ日に使ふこと是古聖人の法なり、唐朝租調庸の法は又別なり、日本の古は唐朝の法を用ひたり、されども其の時は十分一の年貢なり、今年貢の高く成りたるは租調庸を一つにして米にて取たるなるべけれは、古の租調庸の法は用ひがたかるべき也、
現代語訳
京・江戸・大坂・伏見などで地子銭(町地の地代)を出さないのは古法に違うことである。田舎の土地で年貢を出さない土地はない。都も古はそうであった。百姓からばかり年貢を取って町人からは取らないのは、どういう理由で町人の扱いがこれほど結構なのか。この起こりは明智日向守(光秀)からである。その悪例を太閤(秀吉)が用いられ、大坂でも取られなかったので、江戸もそのとおりになったと見える。明智は主君を弑した人である。信長公は御当家(徳川家)の御味方である。それなのに万代までも明智の恩徳を人にありがたがらせるのはどういうことか。また人夫を出させるのに田地の高で出させるのは無理である。田地からは年貢を出すのだから、ほかに何も出させるべきではない。二重に取るのは筋違いである。これは百姓の仲間内で、年貢でも運ぶのは自分の側から運ぶものなので、年貢米の多少に応じて割り当てをしていたことから、田地の高に応じて人夫を割り当てることがあり、それを混同して、公儀から割り当てる夫役にもその法を用いたのである。公役の夫は人数によるもので、二十歳から五十九歳までの男子を一年に三日使うのが古の聖人の法である。唐朝の租調庸の法はまた別である。日本の古は唐朝の法を用いた。しかしその時は十分の一の年貢であった。今、年貢が高くなったのは、租調庸を一つにして米で取っているのであろうから、古の租調庸の法は用いにくいであろう。
解説
この章句が説くこと
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『政談』誓詞の事国方なとにては組頭と云ふものは、其の一組の士を病気も幼少も息災にて勤むるも皆同く支配し、偖江戸の勤めは別に番頭と云ふ者ありて、其の下知を受て勤むることにて、其の組頭の支配の内より番替を以て番頭下へつかはすとき、病気幼少のものにあたれは一組の内より外の人を代りに出たし、その本人よりわり合はせをつかはす故、身上のならぬものは病気幼少の代りを願ひて、ひたものつとむること御当地の取り人の如し、さてわり合ひを出たすこと故勝手に宜しからされは自から虚病は少きと承はる、箇様なる仕方能く詮議せは有るへきことなり、兎角当時の誓詞は御作法のやうに成りて詮なきことなれは、一向に停止なりて唯大名の国なとへ御目付けに行くなと、其の外にも時にとりて当座きりの御用にばかり大切なることに誓詞仰せ付られ然るへき也、
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史記 鄭世家晋の文公、蘭を入れて太子と為さんと欲し、以て鄭に告ぐ。鄭の大夫石癸曰く、「吾聞く、姞姓は乃ち后稷の元妃なり、其の後当に興る者有るべしと。子蘭の母は其の後なり。且つ夫人の子尽く已に死し、余の庶子に蘭の賢に如くは無し。今囲み急なり。晋以て請ふを為す。利孰れか焉より大ならん」と。遂に晋に許し、与に盟ひ、卒に子蘭を立てて太子と為す。晋の兵乃ち罷め去る。四十五年、文公卒し、子蘭立つ、是を繆公と為す。繆公元年春、秦の繆公、三将をして兵を将ゐて鄭を襲はんと欲せしむ。滑に至り、鄭の賈人絃高に逢ふ。詐りて十二牛を以て軍を労ふ。故に秦の兵至らずして還る。晋之を崤に敗る。初め、往年鄭の文公の卒するや、鄭の司城繒賀、鄭の情を以て之を売る。秦の兵故に来る。三年、鄭兵を発して晋に従ひて秦を伐ち、秦の兵を汪に敗る。往年楚の太子商臣其の父成王を弑して代はりて立つ。二十一年、宋の華元と鄭を伐つ。華元羊を殺して士に食はしむるも、其の御羊斟に与へず。怒りて以て鄭に馳す。鄭華元を囚ふ。宋華元を贖ふ。元も亦亡げ去る。晋、趙穿をして兵を以て鄭を伐たしむ。霊公元年春、楚黿を霊公に献ず。子家・子公将に霊公に朝せんとす。子公の食指動く。子家に謂ひて曰く、「佗日指動けば、必ず異物を食らふ」と。入るに及び、霊公の黿の羹を進むるを見る。子公笑ひて曰く、「果たして然り」と。霊公其の笑ふ故を問ふ。具に霊公に告ぐ。霊公之を召し、独り羹を予へず。子公怒り、其の指を染め、之を嘗めて出づ。公怒り、子公を殺さんと欲す。子公、子家と先んぜんことを謀る。夏、霊公を弑す。鄭人、霊公の弟去疾を立てんと欲す。去疾譲りて曰く、「必ず賢を以てせば、則ち去疾は不肖なり。必ず順を以てせば、則ち公子堅長ず」と。堅は霊公の庶弟にして、去疾の兄なり。是に於て乃ち子堅を立つ、是を襄公と為す。襄公立ち、将に尽く繆氏を去らんとす。
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『春秋左氏伝』僖公二十八年 侯獳、曹伯を救う晉侯疾有り。曹伯の豎侯獳(じゅこうじゅ)、筮史に貨して、曰はしめて曰く、「曹を以って解と為す。齊の桓公會を為して異姓を封じ、今君會を為して同姓を滅ぼす。曹叔振鐸は、文の昭なり。先君唐叔は、武の穆なり。且つ諸侯を合して兄弟を滅ぼすは、禮に非ざるなり。衛と偕に命じて、而して與に偕に復さざるは、信に非ざるなり。罪を同じくして罰を異にするは、刑に非ざるなり。禮は以って義を行ひ、信は以って禮を守り、刑は以って邪を正す。此の三者を舍てなば、君將に之を若何せん」と。公說び、曹伯を復し、遂に諸侯と許に會す。晉侯三行を作りて以って狄を禦ぐ。荀林父中行に將たり、屠擊右行に將たり、先蔑左行に將たり。
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『呻吟語』内篇・應務・身を是非の外に置く其の身を是非の外に置きて、而る後に以て是非の中を折る可し。其の身を利害の外に置きて、而る後に以て利害の變を觀る可し。
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尉繚子・十二陵孽(げつ)は屠戮に在り、偏は私多きに在り、
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老子・第5章天地は不仁、万物を以て芻狗と為す。聖人は不仁、百姓を以て芻狗と為す。天地の間は、其れ猶お橐籥のごときか。虚しくして屈きず、動きて愈々出づ。多言なれば数々窮す、中を守るに如かず。
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