政談 / 撿校の跡目兩番に入る事
撿校のあとの兩番に入ること謂れなきことなり、其の初め東照宮の御小姓盲目になりたるを撿校に仰せ付けられたるよりこと起ると云ふ、それは元來士なれは尤のことなり、その以後御扶持を下されたる撿校のあとまては監吹なり、座頭は其の弟子より金をとりて文とて渡世するものなれは、畢竟乞食に似たるものなり、御扶持方を下され御そは近へ召しつかはるれとも、唯々坊主なとの格なるへし、撿校とて紫衣を着る故高位なりと思ひて、不學なる御老中なとの兩番へ入るゝことにしたるなるへし、出家の紫衣をも官位と思ふは文盲なることなり、紫衣何れも平僧にて、衣の色を御免あると云ふまてのことなり、撿校の紫衣は况してそれとは間のあることなり、撿校勾當と云ふ名も官名にあらす、高野の撿校も平僧なり、勾當と云ふは何にても事を取捌くことあり、勾當內侍と云ふも內侍にて事を取捌く故の稱號なり、又座頭の元祖は蟬丸と云ふは琵琶の上手なるより元祖にするなり、蟬丸を延喜の皇子と云ふは誤りなり、また繪に座頭の裝束に蟬丸をかくもひがことなり、座頭の裝束は僧の裝束なり、蟬丸と云ふは仲丸田村丸なとゝ同しことなり、俗人の名なり、
新字:撿校のあとの両番に入ること謂れなきことなり、其の初め東照宮の御小姓盲目になりたるを撿校に仰せ付けられたるよりこと起ると云ふ、それは元来士なれは尤のことなり、その以後御扶持を下されたる撿校のあとまては監吹なり、座頭は其の弟子より金をとりて文とて渡世するものなれは、畢竟乞食に似たるものなり、御扶持方を下され御そは近へ召しつかはるれとも、唯々坊主なとの格なるへし、撿校とて紫衣を着る故高位なりと思ひて、不学なる御老中なとの両番へ入るゝことにしたるなるへし、出家の紫衣をも官位と思ふは文盲なることなり、紫衣何れも平僧にて、衣の色を御免あると云ふまてのことなり、撿校の紫衣は況してそれとは間のあることなり、撿校勾当と云ふ名も官名にあらす、高野の撿校も平僧なり、勾当と云ふは何にても事を取捌くことあり、勾当内侍と云ふも内侍にて事を取捌く故の称号なり、又座頭の元祖は蝉丸と云ふは琵琶の上手なるより元祖にするなり、蝉丸を延喜の皇子と云ふは誤りなり、また絵に座頭の装束に蝉丸をかくもひがことなり、座頭の装束は僧の装束なり、蝉丸と云ふは仲丸田村丸なとゝ同しことなり、俗人の名なり、
書き下し
撿校のあとの両番に入ること謂れなきことなり、其の初め東照宮の御小姓盲目になりたるを撿校に仰せ付けられたるよりこと起ると云ふ、それは元来士なれは尤のことなり、その以後御扶持を下されたる撿校のあとまては監吹なり、座頭は其の弟子より金をとりて文とて渡世するものなれは、畢竟乞食に似たるものなり、御扶持方を下され御そは近へ召しつかはるれとも、唯々坊主なとの格なるへし、撿校とて紫衣を着る故高位なりと思ひて、不学なる御老中なとの両番へ入るゝことにしたるなるへし、出家の紫衣をも官位と思ふは文盲なることなり、紫衣何れも平僧にて、衣の色を御免あると云ふまてのことなり、撿校の紫衣は況してそれとは間のあることなり、撿校勾当と云ふ名も官名にあらす、高野の撿校も平僧なり、勾当と云ふは何にても事を取捌くことあり、勾当内侍と云ふも内侍にて事を取捌く故の称号なり、又座頭の元祖は蝉丸と云ふは琵琶の上手なるより元祖にするなり、蝉丸を延喜の皇子と云ふは誤りなり、また絵に座頭の装束に蝉丸をかくもひがことなり、座頭の装束は僧の装束なり、蝉丸と云ふは仲丸田村丸なとゝ同しことなり、俗人の名なり、
現代語訳
検校の跡継ぎが両番(書院番・小姓組番)に入ることは謂れのないことである。その初めは、東照宮の御小姓が盲目になったのを検校に仰せ付けられたことから起こったという。それはもともと士なのでもっともである。その後、御扶持を下された検校の跡までそうするのは、実力のない者が紛れ込むことである。座頭はその弟子から金を取って暮らしを立てる者だから、つまりは乞食に似たものである。御扶持方を下され、お側近くに召し使われても、ただ坊主などの格であろう。検校といって紫衣を着るので高位だと思って、学問のない御老中などが両番へ入れることにしたのだろう。出家の紫衣をも官位と思うのは無学なことである。紫衣はいずれも平僧で、衣の色を許されるというだけのことである。検校の紫衣はましてそれとは隔たりがある。検校・勾当という名も官名ではない。高野山の検校も平僧である。勾当というのは何にせよ事を取りさばくことがあるのを言う。勾当内侍というのも、内侍で事を取りさばくのでの称号である。また座頭の元祖を蝉丸とするのは、琵琶の上手だから元祖にするのである。蝉丸を延喜の皇子と言うのは誤りである。また絵に座頭の装束で蝉丸を描くのもひが事である。座頭の装束は僧の装束である。蝉丸というのは仲麻呂・田村麻呂などと同じことで、俗人の名である。
解説
この章句が説くこと
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