政談 / 惣して願と云ふ事
又伺と云ふは二筋も三筋もあることを、此の內何方にすへきと頭まて伺ふことなり、然るに若き初心ものゝ事に慣れぬか、手前にて决斷ならぬを何事も伺はせ付けたるくせ付きて、今は一筋にきわまりたることをも自身の了簡を用ゆることなく、人々阿房に成り行き身を踏み込みて勤めぬ也、又伺ひにも差別あることなり、某か父御先々前御代の御部屋住の節、御藥起に召し出たされたる砌、御藥部屋のことによりて御用人まて伺ふことあり、御用人の柘植平兵衛と云ふ人に伺ひたるとき、平兵衛我等は存せすと答ふ、其の時某か父殊の外にせきて、此の人差圖をして後に身の誤りになることを厭ひて差圖をせぬは、御用人に似合はぬ卑怯の仕方なりと思ひ、御用人に候故伺ひ候なり、御差圖成されさる上は自身の料見は斯の如く仕るへしと云ひすてゝ座を立ちたり、其とき平兵衛御廊下まてかけきたり、そこ元の料見の通りも成るほと然るへし、されとも是々の障りある間同しことなれとも斯の如くすへしと差圖せり、夫より某か父と無二になり、御用に立つへきものなりと蔭にても云ひたり、
新字:又伺と云ふは二筋も三筋もあることを、此の内何方にすへきと頭まて伺ふことなり、然るに若き初心ものゝ事に慣れぬか、手前にて決断ならぬを何事も伺はせ付けたるくせ付きて、今は一筋にきわまりたることをも自身の了簡を用ゆることなく、人々阿房に成り行き身を踏み込みて勤めぬ也、又伺ひにも差別あることなり、某か父御先々前御代の御部屋住の節、御薬起に召し出たされたる砌、御薬部屋のことによりて御用人まて伺ふことあり、御用人の柘植平兵衛と云ふ人に伺ひたるとき、平兵衛我等は存せすと答ふ、其の時某か父殊の外にせきて、此の人差図をして後に身の誤りになることを厭ひて差図をせぬは、御用人に似合はぬ卑怯の仕方なりと思ひ、御用人に候故伺ひ候なり、御差図成されさる上は自身の料見は斯の如く仕るへしと云ひすてゝ座を立ちたり、其とき平兵衛御廊下まてかけきたり、そこ元の料見の通りも成るほと然るへし、されとも是々の障りある間同しことなれとも斯の如くすへしと差図せり、夫より某か父と無二になり、御用に立つへきものなりと蔭にても云ひたり、
書き下し
又伺と云ふは二筋も三筋もあることを、此の内何方にすへきと頭まて伺ふことなり、然るに若き初心ものゝ事に慣れぬか、手前にて決断ならぬを何事も伺はせ付けたるくせ付きて、今は一筋にきわまりたることをも自身の了簡を用ゆることなく、人々阿房に成り行き身を踏み込みて勤めぬ也、又伺ひにも差別あることなり、某か父御先々前御代の御部屋住の節、御薬起に召し出たされたる砌、御薬部屋のことによりて御用人まて伺ふことあり、御用人の柘植平兵衛と云ふ人に伺ひたるとき、平兵衛我等は存せすと答ふ、其の時某か父殊の外にせきて、此の人差図をして後に身の誤りになることを厭ひて差図をせぬは、御用人に似合はぬ卑怯の仕方なりと思ひ、御用人に候故伺ひ候なり、御差図成されさる上は自身の料見は斯の如く仕るへしと云ひすてゝ座を立ちたり、其とき平兵衛御廊下まてかけきたり、そこ元の料見の通りも成るほと然るへし、されとも是々の障りある間同しことなれとも斯の如くすへしと差図せり、夫より某か父と無二になり、御用に立つへきものなりと蔭にても云ひたり、
現代語訳
また伺いというのは、二筋も三筋も道があることを、このうちどちらにすべきかと頭まで伺うことである。ところが、若い初心者で事に慣れない者が、自分で決断できないのを、何事も伺わせる癖がついて、今は一筋に決まっていることまでも、自分の了簡を用いることなく、人々は阿呆になってゆき、身を踏み込んで勤めないのである。また伺いにも区別がある。私の父が、先々前代の御代の部屋住みのころ(館林時代)、御薬の役に召し出されたとき、御薬部屋のことについて御用人まで伺うことがあった。御用人の柘植平兵衛という人に伺ったところ、平兵衛は「私どもは存じません」と答えた。そのとき私の父はことのほか腹を立て、この人は指図をして後で自分の誤りになることを嫌って指図をしないのは、御用人に似合わない卑怯なやり方だと思い、「御用人であるから伺ったのです。御指図なさらない以上は、自分の了簡ではこのようにいたします」と言い捨てて座を立った。そのとき平兵衛は廊下まで駆けて来て、「そこもとの了簡のとおりでもなるほどよろしい。けれども、これこれの差し障りがあるので、同じことではあるが、このようにすべきだ」と指図した。それから私の父と無二の仲になり、御用に立つ者だと陰でも言っていた。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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史記 南越列伝使者皆東郷し、太后南郷し、王北郷し、相嘉・大臣皆西郷し、侍坐して飲む。嘉の弟将為り、卒を将ゐて宮外に居る。酒行はれ、太后嘉に謂ひて曰く、「南越の内属は、国の利なり、而るに相君苦だ便ならずとする者は、何ぞや」と。以て使者を激怒せしめんとす。使者狐疑して相杖り、遂に敢て発する莫し。嘉耳目の是に非ざるを見て、即ち起ちて出づ。太后怒り、嘉を鏦くに矛を以てせんと欲す、王太后を止む。嘉遂に出で、其の弟の兵を分かちて舎に就き、病と称し、王及び使者に見ゆるを肯ぜず。乃ち陰に大臣と乱を作さんとす。王素より嘉を誅するに意無し、嘉之を知る、故を以て数月発せず。太后淫行有り、国人附かず、独り嘉等を誅せんと欲するも、力又能はず。天子嘉の王に聴かず、王・王太后弱孤にして制すること能はず、使者怯えて決無きを聞く。又以為へらく王・王太后已に漢に附く、独り呂嘉乱を為す、以て兵を興すに足らずと、荘参をして二千人を以て往きて使ひせしめんと欲す。参曰く、「好を以て往かば、数人にて足れり。武を以て往かば、二千人以て為す足る無し」と。辞して可かず、天子参を罷む。郟の壮士、故の済北の相韓千秋奮ひて曰く、「区区たる越を以て、又王・太后の応ずる有り、独り相呂嘉害を為す、願はくは勇士二百人を得て、必ず嘉を斬りて以て報ぜん」と。是に於て天子千秋と王太后の弟樛楽とを遣はし二千人を将ゐて往かしめ、越の境に入る。呂嘉等乃ち遂に反し、令を国中に下して曰く、「王年少し。太后は、中国の人なり、又使者と乱し、専ら内属を欲し、尽く先王の宝器を持して入りて天子に献じて以て自ら媚び、多く人を従へ、行きて長安に至り、虜売して以て僮僕と為さんとす。自ら一時の利を脱するを取り、趙氏の社稷を顧み、万世の為に慮計するの意無し」と。乃ち其の弟と卒を将ゐて王・太后及び漢の使者を攻め殺す。
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『甲陽軍鑑』品第十四さありて此度長篠にて勝頼公の人数甲州衆うへの原に加藤丹後を残し置き、其余は一円に立て是八千なり、上野衆四千信濃より六千合せて一万八千の内、鳶が巣に千又長篠城奥平押へに千おきて、残る一万六千をもつて七万あまりの人数の節所を三ツまで搆へ、柵の木を三重にふりて待ちかまへてゐる所へ、面もふらずかゝるは、敵四人こなた一人のつもりなれ共、節所と柵の木とを考れば是又敵に十万の加勢なり、縦へば十七万の人数の籠りたる城を一万六千にて責めたるごとくなり、信玄公つねの智略にも千籠りたる城をば、二四の人数にてせめんと定め給ふ、五千にてはことあやうしと有り、
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『大和俗訓』巻之八・応接一人のするわざ、其善悪十分に知れて、明白なること有り。又其事の有様、其人の心の中、善きも悪しきも、明かに知らざること多し。我が心に悪ししと思ふことも、その実をよく尋ぬれば、道理あることあり。善しと思ふことにも、善からざることあり。かやうのこと唐もやまとも、古今多し。天下皆非なるの理なしと、古人もいへり。何事も、人のしわざに故あらんと思ひ、妄に人を悪みそしるべからず。又妄に誉むべからず。
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『囲炉夜話』第二百三則・必ず諸を心に問ふ言は盡くは信ず可からず、必ず諸を理に揆る。事は未だ遽かに行ふ可からず、必ず諸を心に問ふ。
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孫子・地形篇卒を視ること嬰児の如し、故に之と深谿に赴くべし。卒を視ること愛子の如し、故に之と俱に死すべし。厚くして使う能わず、愛して令する能わず、乱れて治むる能わざれば、譬えば驕子の若く、用うべからざるなり。
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