政談 / 諸役人閑暇にして政務に工夫を用ひ身を踏込むべき事
周防守は如何程にありけん、能く思ひはまりて勤めたれは治めの筋に心付きたるにや承はりたることもあり、京都の人唯〻面々の我分をさへすれは京都は治まると常に云ひて、公家は歌を能く讀み學問をすれば少々の惡きことをも許し、醫者は療治を能くし、職人は其家財をよくすれは、皆少々惡しきことは許したりと承はる、或る時京都の片田舍へ周防守行きたるに、古き社のみや居も零落したるに、神主古き裝束を着て拜殿に書物を見て居り、周防守何の書ぞと問へば神書なりと答ふ、其の後ち一年ばかりも過きて、周防守又行きて見たれば神主初めの如し、周防守大に感して此の社の修覆は公儀へは申しがたし、自分に修覆をして參すべしとて修覆せられたり、是も神主の其家業を大切にすることを賞翫してのことにて、京都の治めと云ふことに其の身の全躰はまり居る故なり、今は右の社を板倉の家にて修覆すると云ふ、是は亦世のならはしの例と云ふことに覺えて、後の神主も願ひ、子孫も周防守が本意をば知らず、此の社を信仰したりと思ふは淺ましきことなり、惣して世間にも周防守は公事を能く捌きたりと計り覺えて、申し傳ふるは目もなく耳もなき世なりかし、
新字:周防守は如何程にありけん、能く思ひはまりて勤めたれは治めの筋に心付きたるにや承はりたることもあり、京都の人唯〻面々の我分をさへすれは京都は治まると常に云ひて、公家は歌を能く読み学問をすれば少々の悪きことをも許し、医者は療治を能くし、職人は其家財をよくすれは、皆少々悪しきことは許したりと承はる、或る時京都の片田舎へ周防守行きたるに、古き社のみや居も零落したるに、神主古き装束を着て拝殿に書物を見て居り、周防守何の書ぞと問へば神書なりと答ふ、其の後ち一年ばかりも過きて、周防守又行きて見たれば神主初めの如し、周防守大に感して此の社の修覆は公儀へは申しがたし、自分に修覆をして参すべしとて修覆せられたり、是も神主の其家業を大切にすることを賞翫してのことにて、京都の治めと云ふことに其の身の全体はまり居る故なり、今は右の社を板倉の家にて修覆すると云ふ、是は亦世のならはしの例と云ふことに覚えて、後の神主も願ひ、子孫も周防守が本意をば知らず、此の社を信仰したりと思ふは浅ましきことなり、惣して世間にも周防守は公事を能く捌きたりと計り覚えて、申し伝ふるは目もなく耳もなき世なりかし、
書き下し
周防守は如何程にありけん、能く思ひはまりて勤めたれは治めの筋に心付きたるにや承はりたることもあり、京都の人唯〻面々の我分をさへすれは京都は治まると常に云ひて、公家は歌を能く読み学問をすれば少々の悪きことをも許し、医者は療治を能くし、職人は其家財をよくすれは、皆少々悪しきことは許したりと承はる、或る時京都の片田舎へ周防守行きたるに、古き社のみや居も零落したるに、神主古き装束を着て拝殿に書物を見て居り、周防守何の書ぞと問へば神書なりと答ふ、其の後ち一年ばかりも過きて、周防守又行きて見たれば神主初めの如し、周防守大に感して此の社の修覆は公儀へは申しがたし、自分に修覆をして参すべしとて修覆せられたり、是も神主の其家業を大切にすることを賞翫してのことにて、京都の治めと云ふことに其の身の全体はまり居る故なり、今は右の社を板倉の家にて修覆すると云ふ、是は亦世のならはしの例と云ふことに覚えて、後の神主も願ひ、子孫も周防守が本意をば知らず、此の社を信仰したりと思ふは浅ましきことなり、惣して世間にも周防守は公事を能く捌きたりと計り覚えて、申し伝ふるは目もなく耳もなき世なりかし、
現代語訳
周防守はどれほどの人であったのだろうか。よく思いを定めて務めたので、治めの筋に気づいたのだろうか、聞き及んでいることもある。京都の人に、ただ各自が自分の分をさえ果たせば京都は治まると常に言って、公家は歌をよく詠み学問をすれば少々の悪いことも許し、医者は療治をよくし、職人はその家業をよくすれば、皆少々の悪いことは許したと聞いている。あるとき京都の片田舎へ周防守が行くと、古い社の社殿が荒れ果てているなかで、神主が古い装束を着て拝殿で書物を読んでいた。周防守が何の書かと問うと、神書であると答えた。その後一年ばかり過ぎて、周防守がまた行ってみると、神主は初めと同じであった。周防守は大いに感心し、この社の修復は公儀へは申し出にくいので、自分で修復して差し上げようと言って修復された。これも神主がその家業を大切にしていることを賞したのであり、京都の治めということにその身の全体がはまっていたからである。今では右の社を板倉の家で修復するという。これはまた世のならわしの先例ということになって、後の神主も願い出、子孫も周防守の本意を知らず、この社を信仰しているのだと思っているのは浅ましいことである。総じて世間でも、周防守は訴訟をよくさばいたとばかり覚えて言い伝えているのは、目もなく耳もない世の中である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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尚書・君牙嗚呼(ああ)!丕いに顕らかなるかな、文王の謨。丕いに承くるかな、武王の烈。我が後人を啓き佑け、咸く正を以てして欠くる罔し。爾惟れ敬みて乃の訓を明らかにし、用て先王に奉じ若へ。文・武の光命に対揚し、前人に追配せよ。』王若のごとく曰く、『君牙よ、乃惟れ先正に由り、旧典時れ式れ、民の治乱は茲に在り。乃の祖考の行ふ攸に率ひ、乃の辟の乂むる有るを昭らかにせよ。』
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尚書・周官古に學びて官に入り、事を議するに制を以てすれば、政乃ち迷わず。
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『春秋左氏伝』昭公十三年 奥主有り、外援無し善に下りて齊肅、賄を藏せず、欲に從はず、施舍して倦まず、善を求めて厭かず。是を以って國を有つ、亦た宜ならずや。我が先君文公は、狐季姬の子なり。獻に寵有り。學を好みて貳はず。生まれて十七年、士五人有り。先大夫子餘・子犯有りて、以って腹心と為す。魏犨・賈佗有りて、以って股肱と為す。齊・宋・秦・楚有りて、以って外主と為す。欒・郤・狐・先有りて、以って内主と為す。亡ぐること十九年、志を守ること彌々篤し。惠・懷民を棄て、民從ひて之に與す。獻に異親無く、民に異望無し。天方に晉を相く。將た何を以ってか文に代へん。此の二君は、子干に異なり。共には寵子有り、國には奧主有り。民に施す無く、外に援無し。晉を去れども送らず、楚に歸れども逆へず。何を以ってか國を冀はん」と。晉虒祁を成す。諸侯の朝して歸る者、皆貳心有り。郠を取るが為の故に、晉將に諸侯を以って來り討たんとす。叔向曰く、「諸侯以って威を示さざる可からず」と。乃ち並びに會を徵して吳に告ぐ。
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『甲陽軍鑑』品第四十七其後仰出しには、彼落合彥助事曲淵に年こそおとりたりとも、武辺の事さのみおとる者にてなし、さるについて逍遥軒にとらせ候所に、曲淵が蔵前にて奉行どもに雑言の事赦免せしめてありとて、いつもさやう有べきと存、事下より上をはからふたる様子言語同断、口惜く思召し候、其上第一に彼彥助をあれほどの臆病者にて有べしとは御存知なし、
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『甲陽軍鑑』品第四十八扨また諸人の批判には、さいげんなき法花坊機にあがらん、又はあぶられんとのさた也、奉行衆も此以前岩村田法華坊主、何にても證拠なきさへ以て御分国をはらはるゝ、まして是は大方の御成敗にては有間敷、いそぎ改め出し、日記に付、言上申べしとて書立を以て申上る、
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『政談』奉公人年を僞る事当時十四五歳になるものゝいまた小身にて御奉公もせぬうちに死したるか、兼ねて年を偽りて十七満になりたるは其の人の伯父のあるをは差置とていとこちがいなどの二三歳なるを、他苗を搆はす年をます五六歳も偽りて養子に願へば、願ひの通り仰付けらるゝ事なり、然れは其の先祖の御奉公故に跡を立て玉ふにてはなくて、其の小身にて未た御奉公もせぬ十四五歳になるものゝ跡目を立て玉ふやうなり、是れ皆法の立やう悪しき故跡目を立てらるゝ本意を忘れて例にかゝはる故なり、大名には家相続とて年にもかゝはらさる例あれとも、旗本を支配するともから此の例を引かぬは、ひろく例をも考へす、唯我か扱ひ習ひたる仕くせしかけにて申し立つれは何の詮議も無きこと、是亦当時は何もかも願ひと云事はやる故なり、且又次男三男を他苗にても養子にやりたきと人々のぞみをかけて其支配の頭に頼む故、頼れたるか黙しかたくて斯の如く仕なすもあるへし、此等は願ひに搆はす其の支配同苗の親類はなきかと吟味して申し立つへきこと也、畢竟文盲なれは同苗にても苗他にても跡さへ立ては同しこと也と心得る故もあるへし、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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