政談 / 諸役人閑暇にして政務に工夫を用ひ身を踏込むべき事
今時の御役人は御老中を始めとして、唯々下より申し出つることを捌くを我が役と心得て、治めと云ふ事を夢にも知らぬやうなり、皆身を踏込みて、偖閑暇にして置たらは自然と工夫も付きて治めと云ふことも合點あるべき也、御老中若老中諸番頭諸物頭寺社奉行町奉行地方奉行代官は皆治めの役人なり、下より申し出つることばかりを捌き取次をする役にはあらず、我が支配下組中に惡人多く出でゝ、風俗も惡しきは皆其頭支配の科なり、地頭も年貢を取る計りの役にはあらず、其の知行所を治むる役也、治めと云ふは下の非法を咎め糺すばかりのことにあらず、下を敎へ立て仕込みて惡人も出てず、風俗も善くなるやうにすること也、されば捌き取り次きはかりを役と心得るは、下をば他人の如く見る心なる故、役儀を身に踏込まぬ仕方なり、下の非法を咎め糺すを治めと思ふは、下をば仇相手とする心なる故、人の頭となり人の支配となる道に違ふなり、眞の治めと云ふは我が支配下組中は上より御預置るゝことなれば、末々まで一人も見離されぬものなりと思ひはせりて我が苦にし世話にすることなり、是を聖人の道に民の父母と云ふ、是仁の道なり、
新字:今時の御役人は御老中を始めとして、唯々下より申し出つることを捌くを我が役と心得て、治めと云ふ事を夢にも知らぬやうなり、皆身を踏込みて、偖閑暇にして置たらは自然と工夫も付きて治めと云ふことも合点あるべき也、御老中若老中諸番頭諸物頭寺社奉行町奉行地方奉行代官は皆治めの役人なり、下より申し出つることばかりを捌き取次をする役にはあらず、我が支配下組中に悪人多く出でゝ、風俗も悪しきは皆其頭支配の科なり、地頭も年貢を取る計りの役にはあらず、其の知行所を治むる役也、治めと云ふは下の非法を咎め糺すばかりのことにあらず、下を教へ立て仕込みて悪人も出てず、風俗も善くなるやうにすること也、されば捌き取り次きはかりを役と心得るは、下をば他人の如く見る心なる故、役儀を身に踏込まぬ仕方なり、下の非法を咎め糺すを治めと思ふは、下をば仇相手とする心なる故、人の頭となり人の支配となる道に違ふなり、真の治めと云ふは我が支配下組中は上より御預置るゝことなれば、末々まで一人も見離されぬものなりと思ひはせりて我が苦にし世話にすることなり、是を聖人の道に民の父母と云ふ、是仁の道なり、
書き下し
今時の御役人は御老中を始めとして、唯々下より申し出つることを捌くを我が役と心得て、治めと云ふ事を夢にも知らぬやうなり、皆身を踏込みて、偖閑暇にして置たらは自然と工夫も付きて治めと云ふことも合点あるべき也、御老中若老中諸番頭諸物頭寺社奉行町奉行地方奉行代官は皆治めの役人なり、下より申し出つることばかりを捌き取次をする役にはあらず、我が支配下組中に悪人多く出でゝ、風俗も悪しきは皆其頭支配の科なり、地頭も年貢を取る計りの役にはあらず、其の知行所を治むる役也、治めと云ふは下の非法を咎め糺すばかりのことにあらず、下を教へ立て仕込みて悪人も出てず、風俗も善くなるやうにすること也、されば捌き取り次きはかりを役と心得るは、下をば他人の如く見る心なる故、役儀を身に踏込まぬ仕方なり、下の非法を咎め糺すを治めと思ふは、下をば仇相手とする心なる故、人の頭となり人の支配となる道に違ふなり、真の治めと云ふは我が支配下組中は上より御預置るゝことなれば、末々まで一人も見離されぬものなりと思ひはせりて我が苦にし世話にすることなり、是を聖人の道に民の父母と云ふ、是仁の道なり、
現代語訳
今の役人は老中をはじめとして、ただ下から申し出てくることをさばくのが自分の役目だと心得て、「治め」ということを夢にも知らないようである。皆が身を踏み込み、そのうえで暇を持たせておけば、自然と工夫もつき、治めということも腑に落ちるだろう。老中・若年寄・諸番頭・諸物頭・寺社奉行・町奉行・地方奉行・代官は、皆治めの役人である。下から申し出ることばかりをさばき、取り次ぎをする役ではない。自分の支配下や組の中に悪人が多く出て、風俗も悪いのは、皆その頭や支配役の罪である。地頭も年貢を取るばかりの役ではなく、その知行所を治める役である。治めとは、下の非法をとがめただすばかりのことではない。下を教え育て、仕込んで、悪人も出ず、風俗もよくなるようにすることである。だから、さばきと取り次ぎばかりを役目と心得るのは、下を他人のように見る心であるから、役目を身に踏み込まないやり方である。下の非法をとがめただすのを治めと思うのは、下を敵として相手にする心であるから、人の頭となり人を支配する道に背く。本当の治めとは、自分の支配下や組の者は上からお預かりしているのだから、末々まで一人も見放されないものだと思い至り、それを我が苦労とし世話とすることである。これを聖人の道では「民の父母」という。これが仁の道である。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『五常訓』巻之一・総論一人に仁義あるは、天に陰陽あるが如し。天に陰陽なければ、造化の理ほろびて、四の時行はれず、万物生ぜずして、天地の道立たず。人に仁義なければ、心の徳ほろび、五倫の道行はれずして、人道立たず。禽獣と何ぞ異ならんや。故に易に曰、天の道を立てて陰と陽といふ。人の道を立てて、仁と義といふ。
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『五常訓』巻之二・仁之上一樊遅仁を問ふ、子曰く人を愛すと。仁は愛をつかさどる。故に仁を行ふの道は、人を愛するにあり。此人の字は、五倫をさして見るべし。人を愛するは、即人倫を愛する也。人の道は仁を行ふにあり。仁を行ふの道は人を愛するにあり。人を愛せんとならば、まづ心の私を去り、人我のへだて無くして、あはれみの心をおしひろむるにあり。愛人を以て仁を説き給ふ。誠に切実にして、近き教なり。
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『武士道』第五章 仁・愛不忍の心・仁は徳の王なり武士道は愛敬、寛仁、同情、憐憫を以て、徳の最なるものとし、人の霊魂の賦性の最も高尚なるものなりとす。仁は二様の意義に於て王者の徳なり。即ち高尚なる精神に伴ふ多くの資禀の冠たるのみならず、又た特に王道に契合するが故に徳の王なり。慈悲の王者に於けるは、冠冕よりも貴く、又た権威に勝るとは、吾人はシェイクスピアを俟ちて始めて之を知るものに非らず。ただ宇内諸人と共に、彼より初めて此名言を聞くを得たるのみ。孔孟しばしば、王者の一日も仁勿るべからず、『仁なる者は人なり』なることを明かにせり。孔子曰く、『国君、仁を好めば天下に敵無し』と。又た曰く、『仁は天の尊爵なり、人の安宅なり』と。又た『君、仁なれば仁ならざるは莫く、君、義なれば義ならざるは莫し』とも曰へり。而して孟子の之を説く、更に詳なるものあり。
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『武士道』第五章 仁・愛不忍の心・最も剛毅なる者は最も柔和なり『最も剛毅なる者は、最も柔和なり。最も愛ある者は、最も勇敢なり』とは、古今東西の通義なり。武士のなさけとは、人心に妙音を伝へて、高尚なる情感を覚醒するの語なりき。武夫の慈悲の質たる、他者の慈悲と其類を殊にするには非らず。されど仁の武士に於けるは、漠然たる感情より発するものに非らずして、其心に正義を忘れざるにあり。又た其仁は、ただに情緒の発現たるのみに非らずして、而も其後へには生殺与奪の権を有し、恩に兼ぬるに威を以てす。経済学者が、需要に有効無効の別ありと云ふが如く、武士の慈悲は即ち有効なるものと称すべくして、之を受くるものに対して、或は利益を生じ、或は損害を来たすの力を有せり。武士は獣力を栄とし、之を用ふるの特権に誇りたりと雖も、又た深く孟子が仁の力を説くに服するものなりき。
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司馬法・仁本正、意を獲ざれば則ち権(けん)す。権は戦より出で、仁より出でざるなり。是の故に人を殺して人を安んぜば、之を殺すも可なり。其の国を攻むるも、其の民を愛せば、之を攻むるも可なり。
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『文武訓』文訓上之末一人の文字を見ば、よきことは褒め、さほどなきは、かげにてもそしるべからず。人のつとめて作れる文字を、一言にたやすくそしりおとさんもなさけなし。作れる人、そしりを聞かば、本意なく思ひうらみいかるべし。是をそしるは不仁無礼にて、道理にそむくのみならず、人のうらみを受けて悪しし。又あしき文詩を褒むるも、いつはりにて本意にあらず。只其よしあしを云はざらんには如かじ。
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