政談 / 諸役人閑暇にして政務に工夫を用ひ身を踏込むべき事
執政の面々さへ斯の如くなる故、自餘の役人は皆此の風と今はなりたり、餘りのことに當時は御奉公の筋にてもなく、傍輩中へ自分の見舞にありくを勤めと名を付けて云ふやうに成りたり、某し田舍より出たる砌り聞きなれぬ時は、腹の皮痛くをかしくてこらへかねたり、是皆忙しげに出ありくを肝心のことに覺ゆる故、斯の如き言葉も風俗に連れて出來たり、
新字:執政の面々さへ斯の如くなる故、自余の役人は皆此の風と今はなりたり、余りのことに当時は御奉公の筋にてもなく、傍輩中へ自分の見舞にありくを勤めと名を付けて云ふやうに成りたり、某し田舎より出たる砌り聞きなれぬ時は、腹の皮痛くをかしくてこらへかねたり、是皆忙しげに出ありくを肝心のことに覚ゆる故、斯の如き言葉も風俗に連れて出来たり、
書き下し
執政の面々さへ斯の如くなる故、自余の役人は皆此の風と今はなりたり、余りのことに当時は御奉公の筋にてもなく、傍輩中へ自分の見舞にありくを勤めと名を付けて云ふやうに成りたり、某し田舎より出たる砌り聞きなれぬ時は、腹の皮痛くをかしくてこらへかねたり、是皆忙しげに出ありくを肝心のことに覚ゆる故、斯の如き言葉も風俗に連れて出来たり、
現代語訳
政務をとる重役でさえこのありさまなので、ほかの役人は今では皆この風になってしまった。あまりのことに、今では奉公の筋でもなく、同僚のところへ自分のための挨拶に出歩くことを「勤め」と名づけて呼ぶようになった。私が田舎から出てきたばかりで聞き慣れなかったころは、腹の皮がよじれるほどおかしくて、こらえきれなかった。これは皆、忙しそうに出歩くのを肝心のことと思い込んでいるから、こうした言葉も風俗に連れてできてしまったのである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『長短経』定名夫れ理は心に得るも、言に非ずんば暢びず。物は彼に定まるも、言に非ずんば弁ぜず。言志を暢べざれば則ち以て相接する無く、名物を弁ぜざれば、則ち識鑒顕れず。其の所以を原ね、其の由る所を本づくるに、物に自然の名有り、理に必定の称有るに非ざるなり。其の実を弁ぜんと欲すれば、則ち其の名を殊にし、其の志を宣べんと欲すれば則ち其の称を立つ。故に之を称して曰く、道・徳・仁・義・礼・智・信と。
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論語・雍也篇子曰く、觚、觚ならず。觚ならんや、觚ならんや。
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『正法眼蔵随聞記』巻一宋土の寺院なんどには都て雑談をせざれば、其やうなること、をも云はざるなり、吾が国も近ごろ建仁寺の僧正存生の時は、一向あからさまにも此の如きの言語出来らず、滅後にも存世の時の弟子等、少々残りとヾまりたりし時は一切に云はざりき、近ごろ此の七八年より以来、今ま出の若き人たち時々談ずるなり、存外の次第なり、聖教の中にも麁强悪業令人覚悟無利言説能障正道とありて、只うち出して云処の言ばすら、無利の言説は障道の因縁なり況やかくの如きの言語は、ことばに引れて即ち心も起りつべし、最も用心すべきなり、故さらにかくなん云はじとせずとも、悪きことゝ知りなば漸々に退治すべきなり、
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人物志・八觀其の言甚だ懌べども、精色従わざる者は、中に違う有るなり。其の言違う有れども、精色信ずべき者は、辞の敏ならざるなり。
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論語・顔淵篇司馬牛、仁を問う。子曰く、「仁者は、其の言や訒し。」曰く、「其の言や訒しければ、斯れ之を仁と謂うか。」子曰く、「之を為すこと難し、之を言うこと訒きこと無きを得んや。」
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『正法眼蔵随聞記』巻一雑話の次でに云く、世間の男女老少多く交会姪色等の事を談ず、是を以て心を慰むるとし、興言とすることあり、一旦意をも遊戯し、徒然も慰むるに似たりと云ふとも、僧はもつとも禁断すべきことなり、俗猶よき人、まことしき人の、礼儀をも存じ、げにげにしき談の時、出来らざることなり、只乱酔放逸なる時の談なり、況や僧は専ら仏道を思ふべし、雑語は希有異体の乱僧の云ふことなり、
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