政談 / 諸役人に器量を選ふ事
御旗本の面々番頭とは遠く、御老中若老中とは又一段遠く、御上とは益々遠く隔たるゆゑ、人たるものゝ情上と隔たれば仲間と組合ふこと人情の常なり、御老中若老中番頭の權威は强く、たま〳〵申し出つることは取り上けられす、何事も上の差圖にて使はれ、手前の才智を出たすことなけれは、武家の氣皆寐入りて氣の勇みなく、身搆をすることになり、當時は下は下にて怪まりて、武家の心惣躰特の外に橫着になりたり、惣して上たる人の一言の言葉にて感淚して命を棄て、職分に身を踏み込むは人情常なるに、上の仕掛け風俗に連れて惡しくなりたる故、武家に勢拔けたるは、今は器量ある人のなきと是上の使ひやうの惡しき故なりと知るへし、
新字:御旗本の面々番頭とは遠く、御老中若老中とは又一段遠く、御上とは益々遠く隔たるゆゑ、人たるものゝ情上と隔たれば仲間と組合ふこと人情の常なり、御老中若老中番頭の権威は強く、たま〳〵申し出つることは取り上けられす、何事も上の差図にて使はれ、手前の才智を出たすことなけれは、武家の気皆寐入りて気の勇みなく、身搆をすることになり、当時は下は下にて怪まりて、武家の心惣体特の外に横着になりたり、惣して上たる人の一言の言葉にて感涙して命を棄て、職分に身を踏み込むは人情常なるに、上の仕掛け風俗に連れて悪しくなりたる故、武家に勢抜けたるは、今は器量ある人のなきと是上の使ひやうの悪しき故なりと知るへし、
書き下し
御旗本の面々番頭とは遠く、御老中若老中とは又一段遠く、御上とは益々遠く隔たるゆゑ、人たるものゝ情上と隔たれば仲間と組合ふこと人情の常なり、御老中若老中番頭の権威は強く、たま〳〵申し出つることは取り上けられす、何事も上の差図にて使はれ、手前の才智を出たすことなけれは、武家の気皆寐入りて気の勇みなく、身搆をすることになり、当時は下は下にて怪まりて、武家の心惣体特の外に横着になりたり、惣して上たる人の一言の言葉にて感涙して命を棄て、職分に身を踏み込むは人情常なるに、上の仕掛け風俗に連れて悪しくなりたる故、武家に勢抜けたるは、今は器量ある人のなきと是上の使ひやうの悪しき故なりと知るへし、
現代語訳
御旗本の面々は番頭とは遠く、御老中・若老中とはまた一段遠く、御上とはますます遠く隔たっているので、人たる者の情として、上と隔たれば仲間と組み合うのが人情の常である。御老中・若老中・番頭の権威は強く、たまたま申し出ることは取り上げられず、何事も上の指図で使われ、自分の才智を出すことがないので、武家の気はすっかり寝入って気の勇みがなく、身構えをするようになる。当時は下は下で疑い深くなって、武家の心は全体にことのほか横着になった。総じて上に立つ人の一言の言葉で感涙して命を捨て、職分に身を打ち込むのは人情の常なのに、上の仕掛けや風俗につれて悪くなったので、武家の勢いが抜けたのであり、今は器量ある人がいないのも、これは上の使い方が悪いからだと知るべきである。
解説
この章句が説くこと
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尉繚子・武議兵を起こして直ちに甲冑をして蟣蝨(きしつ)を生ぜしむる者は、必ず吾が効用を為す所なり。鷙鳥の雀を逐ふに、人の懐を襲ひ、人の室に入る者有るは、生を出だすに非ざるなり、後ろに憚る有ればなり。太公望、年七十にして、牛を朝歌に屠り、食を盟津に売り、七十余を過ぐるも主聴かず、人人之を狂夫と謂ふなり。文王に遇ふに及びては、則ち三万の衆を提げ、一戦して天下定まる、武議に非ずんば安くんぞ能く此に合はんや。故に曰く、
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