政談 / 諸役人に器量を選ふ事
偖又當時は何事も理筋を立つること少なくなりたり、是亦人々器量を出さぬ樣になる惡弊なり、惚して下より上へ物を申すは、十あることなれは一つか二つならでは得申さぬものなり、昔は下より申すことは理筋のあることなれは、少々無調法有りても尤もと賞翫して立てたること世の風俗なり、近年は兎角老中若老中に番頭なども下の理筋を立つることを嫌ひ、理筋あることをも顏付を惡くし、不あいしらひにする、其の人理强くて抑へられぬことなれは、智惠を廻はして外の事にて抑へるやうにし、下に物を云はせまじきとする、斯の如くなる故下たる人兎角何事もだまりたるが善きそ、上の機嫌に違はぬやうにするが善きそと云ふことに皆なる、此風俗今は十分に行き亘りて世間阿諛諂侫のたゝ中となる、
新字:偖又当時は何事も理筋を立つること少なくなりたり、是亦人々器量を出さぬ様になる悪弊なり、惚して下より上へ物を申すは、十あることなれは一つか二つならでは得申さぬものなり、昔は下より申すことは理筋のあることなれは、少々無調法有りても尤もと賞翫して立てたること世の風俗なり、近年は兎角老中若老中に番頭なども下の理筋を立つることを嫌ひ、理筋あることをも顔付を悪くし、不あいしらひにする、其の人理強くて抑へられぬことなれは、智恵を廻はして外の事にて抑へるやうにし、下に物を云はせまじきとする、斯の如くなる故下たる人兎角何事もだまりたるが善きそ、上の機嫌に違はぬやうにするが善きそと云ふことに皆なる、此風俗今は十分に行き亘りて世間阿諛諂侫のたゝ中となる、
書き下し
偖又当時は何事も理筋を立つること少なくなりたり、是亦人々器量を出さぬ様になる悪弊なり、惚して下より上へ物を申すは、十あることなれは一つか二つならでは得申さぬものなり、昔は下より申すことは理筋のあることなれは、少々無調法有りても尤もと賞翫して立てたること世の風俗なり、近年は兎角老中若老中に番頭なども下の理筋を立つることを嫌ひ、理筋あることをも顔付を悪くし、不あいしらひにする、其の人理強くて抑へられぬことなれは、智恵を廻はして外の事にて抑へるやうにし、下に物を云はせまじきとする、斯の如くなる故下たる人兎角何事もだまりたるが善きそ、上の機嫌に違はぬやうにするが善きそと云ふことに皆なる、此風俗今は十分に行き亘りて世間阿諛諂侫のたゝ中となる、
現代語訳
さてまた当時は、何事も(下の者の)理屈を立てることが少なくなった。これもまた人々が器量を出さないようになる悪弊である。総じて下から上へ物を申すのは、十あることなら一つか二つしか申せないものである。昔は下から申すことは、筋の通ったことであれば、少々不調法があっても尤もだと賞翫して取り上げたことが世の風俗であった。近年はとかく老中・若老中に番頭なども、下の理屈を立てることを嫌い、筋の通ったことでも顔つきを悪くし、そっけなくあしらう。その人の理屈が強くて抑えられないことなら、知恵を回してほかの事で抑えるようにし、下に物を言わせまいとする。このようであるから、下の人はとかく何事も黙っているのがよいぞ、上の機嫌に違わないようにするのがよいぞ、ということに皆なる。この風俗が今は十分に行き渡って、世間は阿諛諂佞(おもねりへつらい)のただ中となっている。
解説
この章句が説くこと
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『甲陽軍鑑』品第十四一上の剛强成る男の仕形は、平生も陣の時は猶ほ以て人にもかまはず働き、前にも我しはざを分別にて工夫し、其塲へ出ては機のきいたる才覚を以て手抦をせんと思ふより、人にも一円搆はぬ者なり、二中の機のきいたる男は上の人に負けまじと機をきいて馳り廻り、上の人におとりて見へぬ者なり、三下の男は只の儀もなく上中の人がゆかば、我等もまいらんとて、ふたりの人に目をつけてつきそひまはる者なり、四其外の男は皆人なみと申すなり、上の男は侍百人の中にふたり、中の男は百人の内に六人、下の男は百人の中に十二人、残て八十人は並なり、
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『徂徠先生答問書』卷中されば人々如此心懸候故、見え兼るもことわりにて候。足下も御先祖様の時代の事御聞可被成候。今の世より見候へば、其時分に名を申候能人と申候は皆疵物にて候。是別の子細に無御座候。其時分はぬり隠し申候事無御座候故、疵見え申候。疵見え申候得ば、人才は見え申候。今時も世上の悪俗に染不申候人は疵多く御座候間、疵物にならでは人才はなき物と被思召、疵物の内にて御ゑらび可被成候。疵もなく才も長じ候人を御尋候はゞ、最前申候御物ずきの注文と申物にて、疵なき人は郷原か巧言令色か扨は庸人と可被思召候。以上。
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尉繚子・武議兵を起こして直ちに甲冑をして蟣蝨(きしつ)を生ぜしむる者は、必ず吾が効用を為す所なり。鷙鳥の雀を逐ふに、人の懐を襲ひ、人の室に入る者有るは、生を出だすに非ざるなり、後ろに憚る有ればなり。太公望、年七十にして、牛を朝歌に屠り、食を盟津に売り、七十余を過ぐるも主聴かず、人人之を狂夫と謂ふなり。文王に遇ふに及びては、則ち三万の衆を提げ、一戦して天下定まる、武議に非ずんば安くんぞ能く此に合はんや。故に曰く、
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『政談』官位爵祿の次第並に勳階頭助允目の事且又役人を年久しく役換をさせねは、述懐することなく、其の役に器量相応にて、能く役儀のことを取り捌く人を外の役に替ふることは惜きことなり、是によりて一役に久しく仕置きて役換を申付ぬ時、加增か官位この外仕方なし、是上より下へ賜はりて下たるものに、勇まする道具少き故人を使ふに行支なるなり、町奉行、盗賊奉行なとをする人、役儀を能く勤めて外の役に換へ措しけれと、加增も度々はやられす、是非なく大目付などに役換をさせて、外の人を後役に申付たるとき、幾人申付けても初め大目付に役換をさせたる人の如き人なからんとき、又其人を元役に返すこと後へ歩むことなれは申付け難し、是は譬なり、外の役儀にも箇様なることあるへし、此差支皆な一役一席に立てたるより起りたるなり、
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『韓非子』難二第三十七桓公曰く、「吾聞く、人に君たる者は人を索むるに労し、人を使うに佚すと。吾仲父を得ること已に難し。仲父を得るの後、何為れぞ易からざらんや。」
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『甲陽軍鑑』品第十一一年前代駿河にて今川義元公の時、山本勘介三河国牛くほより今川殿へ奉公の望に参るといへども、彼山本勘介散々夫男にて、其上一眼指も不叶、足はちんばなり、然れども大剛の者なれば義元公へめしおかるゝ様にと広原勘介が宿成る故、おとなの朝比奈兵衛の尉をもつて申上げるは、彼の山本勘介大剛の者なり、殊更城とり陣取り一切の軍法を能く鍛練いたす、京流の兵法も上手なり、軍配をも存知仕つりたる者なりと申せとも、義元公かこへましまさず、駿河にてモヽ味の人の取りがといの山形は第一片輪者数取り服なり其法は其最を人数もとたずして何とて左様の義存ぜん、今川殿へ奉公に出て度きとて虚言を云ふなりと各申すにより、
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