政談 / 諸大名の困窮を救ふ事
諸大名の身上のこと是亦同斷なり、其身上の困究するいはれは、隔年に江戶詰する故御城下をはれと覺え、物成悉く賣り拂ひ金にして江戶にて遣ひ棄ることは大名の境界なり、これによりて自分のをこりたへ〳〵なるも、江戶の物價高直になることによりて次第にもの入り强くなる、慶長寛永の頃まては諸大名謀叛を氣遣ひ金を遣はするやうにすること其時分御年寄ともの計策なり、これによりて御老中諸大名よりものをとること却て御奉公の筋にて、其時分は曾て遠慮なきことなりと云ふ、此筋盛遣に成て御先々前御代の頃は御手傳ひ等仰せ付らるゝこと盛なる故諸大名愈々物をひ、上の御威勢の烈しきに恐れて手前の困窮をも顧みす、京都大坂の町人より金を借り返辨もならす、大方はよこにねることになれは其後は金を貸さす、然るに金銀のかはりめになり困窮以ての外なり、
新字:諸大名の身上のこと是亦同断なり、其身上の困究するいはれは、隔年に江戸詰する故御城下をはれと覚え、物成悉く売り払ひ金にして江戸にて遣ひ棄ることは大名の境界なり、これによりて自分のをこりたへ〳〵なるも、江戸の物価高直になることによりて次第にもの入り強くなる、慶長寛永の頃まては諸大名謀叛を気遣ひ金を遣はするやうにすること其時分御年寄ともの計策なり、これによりて御老中諸大名よりものをとること却て御奉公の筋にて、其時分は曽て遠慮なきことなりと云ふ、此筋盛遣に成て御先々前御代の頃は御手伝ひ等仰せ付らるゝこと盛なる故諸大名愈々物をひ、上の御威勢の烈しきに恐れて手前の困窮をも顧みす、京都大坂の町人より金を借り返弁もならす、大方はよこにねることになれは其後は金を貸さす、然るに金銀のかはりめになり困窮以ての外なり、
書き下し
諸大名の身上のこと是亦同断なり、其身上の困究するいはれは、隔年に江戸詰する故御城下をはれと覚え、物成悉く売り払ひ金にして江戸にて遣ひ棄ることは大名の境界なり、これによりて自分のをこりたへ〳〵なるも、江戸の物価高直になることによりて次第にもの入り強くなる、慶長寛永の頃まては諸大名謀叛を気遣ひ金を遣はするやうにすること其時分御年寄ともの計策なり、これによりて御老中諸大名よりものをとること却て御奉公の筋にて、其時分は曽て遠慮なきことなりと云ふ、此筋盛遣に成て御先々前御代の頃は御手伝ひ等仰せ付らるゝこと盛なる故諸大名愈々物をひ、上の御威勢の烈しきに恐れて手前の困窮をも顧みす、京都大坂の町人より金を借り返弁もならす、大方はよこにねることになれは其後は金を貸さす、然るに金銀のかはりめになり困窮以ての外なり、
現代語訳
諸大名の財政のことも、これまた(旗本と)同じである。大名が困窮するわけは、隔年に江戸へ詰めるので、御城下を晴れの場と心得て、年貢の収穫物をことごとく売り払って金に換え、江戸で使い捨てるのが大名の境遇だからである。そのため自分の奢りも絶えず、江戸の物価が高くなることで次第に出費がかさんでいく。慶長・寛永の頃までは、諸大名の謀叛を警戒して、金を使わせるように仕向けるのが当時の御年寄(老中)たちの策略であった。それゆえ老中が諸大名から物を受け取ることはかえって御奉公の筋とされ、当時はまったく遠慮のないことだったという。この流れが盛んになって、三代前の御代の頃には御手伝い(幕府の普請の負担)などを盛んに命じられたので、諸大名はいよいよ物入りとなり、お上の御威勢の厳しさを恐れて自分の困窮も顧みず、京都・大坂の町人から金を借りては返済もできず、たいていは踏み倒すことになったので、その後は町人も金を貸さなくなった。そこへ金銀の改鋳の時期となり、困窮はもってのほかとなった。
解説
この章句が説くこと
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『政談』諸大名の困窮を救ふ事昔は大名に物をつかはすること上策なれとも、今は諸大名の困窮至極になりたれは身上をよくたもちて永々参勤交代のなるやうにする事是当時の良策なるへし、其仕方は之も公儀と同断にて其国より出つるものを直に取用ひて金にてものを調へぬ仕方有へし、家中の武士をは皆知行所を割り渡して面々の知行所に居住し城下へ勤番をするやうにし、偖参勤の節召つるゝ人数を殊の外に减少し、御城下往来の供まわりをも随分に減し、奥方の作法より始まり其身の持やう、食事衣服器物家居人のつかひやう音信贈答使しやの次第冠婚喪祭の礼まて、その官位知行高に応し何れも随分に物入少く取りつゝきのなるやうに積り、上より制度を立て玉ふへき事なり、公儀にばかり制度を立てゝそれに準すへしなとゝあるやう成ことにては今まて並を見合はせて仕来りたることを既に格と名を付けたれは之を改むることなりかたし、この格と名を付たることをやふることは公儀より新たに制度を立玉はすしては仲々破れ難し、之れを破らすしては諸大名の身上は直るへからさるなり、
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『政談』當時困窮を改むる道古三代の制度を考へ定むべき事制度のことは先差措き末に至りて申すへし、先つ旅宿の所を言はゝ諸大名一年替りに御城下に詰め居れは一年は並の旅宿なり、其妻は常に江戸なる故常住の旅宿なり、御旗本の武士も常に江戸にて常住の旅宿なり、諸大名の家中も大方は其城下に集まり居て、面々の地行所に居らされは旅宿成る上、近年は江戸勝手の家来次第に多く成る、これをこの武士と云はるゝほとのものゝ旅しゆくならぬは一人もなし、諸国の民の工商の業をするものも、ぼていふり、日用取りなとの游民も、在所を離れて御城下に集まる者、年々にいやましにて、旅宿をも旅宿と心得るときは物入りも少なきことなるを、江戸中のもの旅宿と云ふ心は夢にも付かす、旅宿を常住と心得る故暮しの物入り莫大にして、武士の知行は皆商人に吸取らるゝなり、
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『政談』當時困窮を改むる道古三代の制度を考へ定むべき事畢竟精を出して上へ奉公をして、上より賜はる禄は残らず皆御城下の商人のものとなり、馬を持ことも成らす、人を持こともならず、各春のきふ符の間をは質物にてとりつゞき、町人に仕送りと云ふことを頼みて、己れが身上は人の手に渡るやうに当時はなりきはまりたるは哀なる事ならずや、畢竟は箸一本にても代を出して買調へされは叶はさること故斯の如くなりたるなり、之のみならず公儀の御身上も同く旅宿の仕掛なり、其仔細は何もかも皆御買上けにて御用を弁せらるヽによりて旅宿なり、惣して和漢ともに天下を知し召さるゝ上は、御買上と云ふことはなき故なり、大名なとの在所他国なるか御城下に参勤して詰め居るは旅宿なれは尤のことなり、天下を知し召さるゝ上は日本国中は皆御国なり、何もかも皆其のものを直に御用ひなさるゝこと故御買上げと云ふことはなき筈なり、物を買ふと云ふは元来人のものなるをたゝは取られぬことなる故代を出して取ることを云ふなり、
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『政談』諸大名の困窮を救ふ事総して大名の第一とすへきことは家中の治り民の治めをして身上をすりきらず、武備を失はす、又永く参勤交代を務めて守護し奉ることなり、偖平日公儀の勤めは大格さへ違はすんは些少のことは人々の了簡次第にて、少し早くとも遅くとも少し出入りありても苦しかるましきことなるに、何事も本を取失ひ唯々あたりを聞合はせ一統にする風俗なる上、御年寄とも取捌きも心得違ひ多き故留守居なくて叶はす、其家の家老も楽を好みて主人を大切にせぬ故、留守居を立て置きて公辺の勤にはかまはぬなり、斯の如く成仔細によりて大名の身上の倹約今はすへきやうなくなりたるなり、
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『政談』武家旅宿の境遇を改むる事国に締を付けたること大概右の条々につくせり、されとも畢竟の所武家を知行所に置さるは締の至極にあらす、夫のみならす武道を再興し、世界の奢りを静め、武家の貧窮を救ふ仕方此の外更に有るへからす、先つ第一武家御城下に集り居るは旅宿なり、諸大名の家来も其の城下に居るを江戸に対して在所とはいへとも、是亦己か知行所にあらされは旅宿なり、其仔細は衣食住を初め木一本も買調へねはならぬ故旅宿なり、故に武家を御城下に差置ときは、一年の知行米を売払ふて夫にてものを買調へ一年中に使ひ切る故、勢を出して上へする奉公は皆御城下の町人のためになるなり、是に依りて御城下の町人盛になりて世界次第に悪しくなり、物の直段次第に高直になりて武家の困窮当時に至りては最早すへきやうなくなりたり、
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『政談』御旗本諸士の困窮を救ふ事右に段々記したる通り制度を立つると旅宿の境界を巳むると、此二つ困窮を巳むる根本也、世話しなき風俗の事は上の思召老中の心得にあることなれは今更之を已むる仕方とて別にはなし、大抵此通りなれとも困窮の上にも近年困窮甚しくなりたる仔細三色あり、一つには諸色の直段高直に成たること、二つには金銀の数減少したること、三つには貸借の道塞かりて少なき金銀流通せさること是なり、是に由りて此三色の手当なきときは行き支へ有るべきなり、其手当左に記す、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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