政談 / 武家旅宿の境遇を改むる事
某外祖父兒島助左衛門が父歟祖父歟二百石とりて三河の知行所に居住す、大坂御陣の御供にさむらい七八人馬二匹引かせたりと曾祖母の語りしなり、曾祖母は大御番頭鳥井久兵衛娘にて、久兵衛知行所上總の國かりやにて生れ、三河へ緣付き久しく住む故後迄も三河言葉なり、助左衛門は貞享の頃御科之あり流罪仰せ付けられ跡斷絕し、三河の知行所も上りたれども、當時も兒島とう在はんにのほる節は件の三河の百姓とも岡崎まて罷り出て昔の地頭とて目見をするなり、武家知行所に住む時は百姓とも幼少より地頭樣とて崇め貴ふ心骨髓に染む故其の所も能く治まるなり、左樣の者を軍役に召し連るゝは欠落のことは申すに及はす、其の主人の用に立つこと承はり傳へたるはなきも多きなり、
新字:某外祖父児島助左衛門が父歟祖父歟二百石とりて三河の知行所に居住す、大坂御陣の御供にさむらい七八人馬二匹引かせたりと曽祖母の語りしなり、曽祖母は大御番頭鳥井久兵衛娘にて、久兵衛知行所上総の国かりやにて生れ、三河へ縁付き久しく住む故後迄も三河言葉なり、助左衛門は貞享の頃御科之あり流罪仰せ付けられ跡断絶し、三河の知行所も上りたれども、当時も児島とう在はんにのほる節は件の三河の百姓とも岡崎まて罷り出て昔の地頭とて目見をするなり、武家知行所に住む時は百姓とも幼少より地頭様とて崇め貴ふ心骨髄に染む故其の所も能く治まるなり、左様の者を軍役に召し連るゝは欠落のことは申すに及はす、其の主人の用に立つこと承はり伝へたるはなきも多きなり、
書き下し
某外祖父児島助左衛門が父歟祖父歟二百石とりて三河の知行所に居住す、大坂御陣の御供にさむらい七八人馬二匹引かせたりと曽祖母の語りしなり、曽祖母は大御番頭鳥井久兵衛娘にて、久兵衛知行所上総の国かりやにて生れ、三河へ縁付き久しく住む故後迄も三河言葉なり、助左衛門は貞享の頃御科之あり流罪仰せ付けられ跡断絶し、三河の知行所も上りたれども、当時も児島とう在はんにのほる節は件の三河の百姓とも岡崎まて罷り出て昔の地頭とて目見をするなり、武家知行所に住む時は百姓とも幼少より地頭様とて崇め貴ふ心骨髄に染む故其の所も能く治まるなり、左様の者を軍役に召し連るゝは欠落のことは申すに及はす、其の主人の用に立つこと承はり伝へたるはなきも多きなり、
現代語訳
私の外祖父児島助左衛門の父か祖父かが、二百石を取って三河の知行所に住んでいた。大坂の陣のお供に侍七、八人、馬二頭を引かせたと、曾祖母が語っていた。曾祖母は大御番頭鳥居久兵衛の娘で、久兵衛の知行所上総の国かりやで生まれ、三河へ嫁いで長く住んだので、後々まで三河言葉であった。助左衛門は貞享の頃に罪があって流罪を仰せ付けられ、家は断絶し、三河の知行所も召し上げられたが、今も児島の一族が在番に上る時には、その三河の百姓たちが岡崎まで出て来て、昔の地頭だといってお目見えをするのである。武家が知行所に住む時は、百姓たちは幼い時から「地頭様」と崇め尊ぶ心が骨髄に染みるので、その土地もよく治まるのである。そのような者を軍役に連れて行けば、欠落することは言うまでもなく、その主人の役に立ったという話が伝えられているものも多い。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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