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政談 / 遊女河原者の種姓の分事並に乞食の締りの事

御先々前御代のとき美濃守が知行所川越に一人の百姓の田地屋敷もなくなりたる故、渡世すへきやうもなくて妻をは四五日先きに暇を出たし、己は頭を剃り道入と名を付け一人の母を連れて所をさまよひ出たるか、熊谷か鴻の巢のへんにて母わつらひたるをすて置き、その身は江戶へ來る、所の者その母に尋ね問ひて川越へをくりかへし、夫より右の道入親棄と云ふことになりたり、美濃守親棄の刑をいかゝ行ふことなるそ、和漢の先例を考へ差出すへしと儒者ともに申し付たるそのとき、某美濃守方へ參りて未だ新參のときなり、何れも考へて親棄の刑は明律にも見えす書籍にもなし、このものゝ始末は畢竟非人なり、母を連れて乞食したるか行きわかれたると云ふ者なり、親棄とは名付かたし、妻をは四五日まへに暇を出たしたれは、乞食するまても母をは伴ひたるところ非人の上には奇篤なり、己は妻と同しく家に居て母を他所へ棄たらは親棄なりと、儒者とも一同に申したれとも、如何樣のものにても親を弃つるには忍ひさるはづのことなりとて美濃守合點せす、

新字:御先々前御代のとき美濃守が知行所川越に一人の百姓の田地屋敷もなくなりたる故、渡世すへきやうもなくて妻をは四五日先きに暇を出たし、己は頭を剃り道入と名を付け一人の母を連れて所をさまよひ出たるか、熊谷か鴻の巣のへんにて母わつらひたるをすて置き、その身は江戸へ来る、所の者その母に尋ね問ひて川越へをくりかへし、夫より右の道入親棄と云ふことになりたり、美濃守親棄の刑をいかゝ行ふことなるそ、和漢の先例を考へ差出すへしと儒者ともに申し付たるそのとき、某美濃守方へ参りて未だ新参のときなり、何れも考へて親棄の刑は明律にも見えす書籍にもなし、このものゝ始末は畢竟非人なり、母を連れて乞食したるか行きわかれたると云ふ者なり、親棄とは名付かたし、妻をは四五日まへに暇を出たしたれは、乞食するまても母をは伴ひたるところ非人の上には奇篤なり、己は妻と同しく家に居て母を他所へ棄たらは親棄なりと、儒者とも一同に申したれとも、如何様のものにても親を弃つるには忍ひさるはづのことなりとて美濃守合点せす、

書き下し

御先々前御代のとき美濃守が知行所川越に一人の百姓の田地屋敷もなくなりたる故、渡世すへきやうもなくて妻をは四五日先きに暇を出たし、己は頭を剃り道入と名を付け一人の母を連れて所をさまよひ出たるか、熊谷か鴻の巣のへんにて母わつらひたるをすて置き、その身は江戸へ来る、所の者その母に尋ね問ひて川越へをくりかへし、夫より右の道入親棄と云ふことになりたり、美濃守親棄の刑をいかゝ行ふことなるそ、和漢の先例を考へ差出すへしと儒者ともに申し付たるそのとき、某美濃守方へ参りて未だ新参のときなり、何れも考へて親棄の刑は明律にも見えす書籍にもなし、このものゝ始末は畢竟非人なり、母を連れて乞食したるか行きわかれたると云ふ者なり、親棄とは名付かたし、妻をは四五日まへに暇を出たしたれは、乞食するまても母をは伴ひたるところ非人の上には奇篤なり、己は妻と同しく家に居て母を他所へ棄たらは親棄なりと、儒者とも一同に申したれとも、如何様のものにても親を弃つるには忍ひさるはづのことなりとて美濃守合点せす、

現代語訳

先々代の将軍(綱吉)の御代、美濃守(柳沢吉保)の知行所である川越で、一人の百姓が田地も屋敷もなくなったので、暮らしを立てる手立てもなく、妻には四、五日前に暇を出し、自分は頭を剃って道入と名乗り、一人の母を連れて土地をさまよい出たが、熊谷か鴻巣のあたりで母が病気になったのを置き去りにして、自分は江戸へ来た。その土地の者が母に事情を尋ねて川越へ送り返し、それから道入は親棄て(親を捨てた罪)ということになった。美濃守が「親棄ての刑はどう行うべきか、和漢の先例を考えて差し出せ」と儒者たちに申し付けたその時、私は美濃守のもとに仕えてまだ新参の頃であった。皆が考えて、「親棄ての刑は明律にも見えず、書物にもない。この者のいきさつは結局のところ非人である。母を連れて乞食をしていて行き別れたという者である。親棄てとは名付けがたい。妻には四、五日前に暇を出したのだから、乞食するまでも母を伴っていたところは、非人としては奇特である。自分が妻と一緒に家に居て、母をよそへ捨てたなら親棄てである」と、儒者たちは一同に申し上げたが、「どのような者であっても、親を捨てるには忍びないはずのことだ」と言って、美濃守は納得しなかった。

解説

徂徠が柳沢吉保に仕えて間もない頃に関わった、親棄て事件の経緯である。困窮して母を連れ出た百姓が、病んだ母を置いて江戸へ出た。儒者たちは明律にも先例がなく、むしろ母を伴っていたのは奇特だと弁じたが、吉保は親を捨てる心そのものを許さない。ここには、法と先例で事実を評価する立場と、心情の倫理で裁こうとする立場の対立がある。現代の組織でも、不祥事の処分を道徳的な憤りだけで決めると、背景にある構造が見落とされる。事実の経緯を丁寧にたどる重要性を示す前段である。

この章句が説くこと

刑罰先例判断困窮柳沢吉保儒者

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