政談 / 遊女河原者の種姓の分事並に乞食の締りの事
某十七八のとき上總の國にて承はりたること有り、加賀の國には非人一人もなし、非人出れは小屋を立て入れ置きて草履を造らせ繩をなわせ、種々のわさを申し付けて加賀守之を養ふ、役人を付て居て其の繩草履等を賣せて又元の如く店を持たすることなり、加賀の國より逐電して來り上總の國に住み居るものゝ語りしを聞きて眞に仁政なるやと存したるあり、今は如何なるらん、當時施藥所を御立てあるもくはう大の御悲慈なれとも、今少し下の御覽なされやう結搆なり、賤しきものわつらひて死すれは仕合なり、息災にて命のいきて飢渴にせまること當時の屋敷ものゝ上にて最第一の難儀なりと知るべし、其の役によりをもひまうけたる人を町奉行とし、治めの筋を第一とし、町より惡人出て非人出つるは役義の耻なりと云ふ事を示してあまり上よりの抑へ扣へなく心の儘に量見をさせたらんには、才智ある人ならは非人のとりをさめ如何やうにもなるへきことなり、偖古き乞食には善七方にて人別を立てゝ、尤も妄りに新こもかふりを手下にすることを禁ずべし、田舍迄も善七松右衛門手下成る故手屆かすすかりて惡しゝ、田舍の乞食は所きりに其村の支配なるべし、
新字:某十七八のとき上総の国にて承はりたること有り、加賀の国には非人一人もなし、非人出れは小屋を立て入れ置きて草履を造らせ縄をなわせ、種々のわさを申し付けて加賀守之を養ふ、役人を付て居て其の縄草履等を売せて又元の如く店を持たすることなり、加賀の国より逐電して来り上総の国に住み居るものゝ語りしを聞きて真に仁政なるやと存したるあり、今は如何なるらん、当時施薬所を御立てあるもくはう大の御悲慈なれとも、今少し下の御覧なされやう結搆なり、賤しきものわつらひて死すれは仕合なり、息災にて命のいきて飢渇にせまること当時の屋敷ものゝ上にて最第一の難儀なりと知るべし、其の役によりをもひまうけたる人を町奉行とし、治めの筋を第一とし、町より悪人出て非人出つるは役義の耻なりと云ふ事を示してあまり上よりの抑へ扣へなく心の儘に量見をさせたらんには、才智ある人ならは非人のとりをさめ如何やうにもなるへきことなり、偖古き乞食には善七方にて人別を立てゝ、尤も妄りに新こもかふりを手下にすることを禁ずべし、田舎迄も善七松右衛門手下成る故手届かすすかりて悪しゝ、田舎の乞食は所きりに其村の支配なるべし、
書き下し
某十七八のとき上総の国にて承はりたること有り、加賀の国には非人一人もなし、非人出れは小屋を立て入れ置きて草履を造らせ縄をなわせ、種々のわさを申し付けて加賀守之を養ふ、役人を付て居て其の縄草履等を売せて又元の如く店を持たすることなり、加賀の国より逐電して来り上総の国に住み居るものゝ語りしを聞きて真に仁政なるやと存したるあり、今は如何なるらん、当時施薬所を御立てあるもくはう大の御悲慈なれとも、今少し下の御覧なされやう結搆なり、賤しきものわつらひて死すれは仕合なり、息災にて命のいきて飢渇にせまること当時の屋敷ものゝ上にて最第一の難儀なりと知るべし、其の役によりをもひまうけたる人を町奉行とし、治めの筋を第一とし、町より悪人出て非人出つるは役義の耻なりと云ふ事を示してあまり上よりの抑へ扣へなく心の儘に量見をさせたらんには、才智ある人ならは非人のとりをさめ如何やうにもなるへきことなり、偖古き乞食には善七方にて人別を立てゝ、尤も妄りに新こもかふりを手下にすることを禁ずべし、田舎迄も善七松右衛門手下成る故手届かすすかりて悪しゝ、田舎の乞食は所きりに其村の支配なるべし、
現代語訳
私が十七、八歳のとき、上総の国で聞いたことがある。加賀の国には非人が一人もいない。非人が出れば小屋を建てて入れておき、草履を作らせ縄をなわせ、いろいろな仕事を申し付けて、加賀守(前田家)がこれを養う。役人を付けておいて、その縄や草履などを売らせ、また元のように店(住まい)を持たせるのである。加賀の国から逐電して上総に住んでいた者が語るのを聞いて、本当に仁政だと思ったことがある。今はどうなっているだろうか。現在、施薬所(小石川養生所)をお立てになったのも広大な御慈悲だが、もう少し下々の様子をご覧になるとよい。賤しい者は病気になって死ねばむしろ幸せである。元気で命があるのに飢えと渇きに迫られることこそ、今の屋敷者(奉公人など)にとって最大の難儀だと知るべきである。その役目にふさわしい心構えのある人を町奉行とし、治めの筋を第一とし、町から悪人が出たり非人が出たりするのは役目の恥だということを示して、あまり上から抑え控えさせず、思うままに考えさせたなら、才智ある人であれば非人の取り治めはどのようにもできるはずである。さて古くからの乞食については善七の方で人別(名簿)を立て、もっとも、みだりに新こもかぶりを手下にすることを禁じるべきである。田舎まで善七や松右衛門の手下にしているので手が届かず、すかすか(行き届かない)で悪い。田舎の乞食は、その土地ごとに、その村の支配とすべきである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『徂徠先生答問書』卷中されば人々如此心懸候故、見え兼るもことわりにて候。足下も御先祖様の時代の事御聞可被成候。今の世より見候へば、其時分に名を申候能人と申候は皆疵物にて候。是別の子細に無御座候。其時分はぬり隠し申候事無御座候故、疵見え申候。疵見え申候得ば、人才は見え申候。今時も世上の悪俗に染不申候人は疵多く御座候間、疵物にならでは人才はなき物と被思召、疵物の内にて御ゑらび可被成候。疵もなく才も長じ候人を御尋候はゞ、最前申候御物ずきの注文と申物にて、疵なき人は郷原か巧言令色か扨は庸人と可被思召候。以上。
-
『政談』官位爵祿の次第並に勳階頭助允目の事且又役人を年久しく役換をさせねは、述懐することなく、其の役に器量相応にて、能く役儀のことを取り捌く人を外の役に替ふることは惜きことなり、是によりて一役に久しく仕置きて役換を申付ぬ時、加增か官位この外仕方なし、是上より下へ賜はりて下たるものに、勇まする道具少き故人を使ふに行支なるなり、町奉行、盗賊奉行なとをする人、役儀を能く勤めて外の役に換へ措しけれと、加增も度々はやられす、是非なく大目付などに役換をさせて、外の人を後役に申付たるとき、幾人申付けても初め大目付に役換をさせたる人の如き人なからんとき、又其人を元役に返すこと後へ歩むことなれは申付け難し、是は譬なり、外の役儀にも箇様なることあるへし、此差支皆な一役一席に立てたるより起りたるなり、
-
尉繚子・武議兵を起こして直ちに甲冑をして蟣蝨(きしつ)を生ぜしむる者は、必ず吾が効用を為す所なり。鷙鳥の雀を逐ふに、人の懐を襲ひ、人の室に入る者有るは、生を出だすに非ざるなり、後ろに憚る有ればなり。太公望、年七十にして、牛を朝歌に屠り、食を盟津に売り、七十余を過ぐるも主聴かず、人人之を狂夫と謂ふなり。文王に遇ふに及びては、則ち三万の衆を提げ、一戦して天下定まる、武議に非ずんば安くんぞ能く此に合はんや。故に曰く、
-
『甲陽軍鑑』品第十四一上の剛强成る男の仕形は、平生も陣の時は猶ほ以て人にもかまはず働き、前にも我しはざを分別にて工夫し、其塲へ出ては機のきいたる才覚を以て手抦をせんと思ふより、人にも一円搆はぬ者なり、二中の機のきいたる男は上の人に負けまじと機をきいて馳り廻り、上の人におとりて見へぬ者なり、三下の男は只の儀もなく上中の人がゆかば、我等もまいらんとて、ふたりの人に目をつけてつきそひまはる者なり、四其外の男は皆人なみと申すなり、上の男は侍百人の中にふたり、中の男は百人の内に六人、下の男は百人の中に十二人、残て八十人は並なり、
-
『韓非子』難二第三十七桓公曰く、「吾聞く、人に君たる者は人を索むるに労し、人を使うに佚すと。吾仲父を得ること已に難し。仲父を得るの後、何為れぞ易からざらんや。」
-
『甲陽軍鑑』品第十一一年前代駿河にて今川義元公の時、山本勘介三河国牛くほより今川殿へ奉公の望に参るといへども、彼山本勘介散々夫男にて、其上一眼指も不叶、足はちんばなり、然れども大剛の者なれば義元公へめしおかるゝ様にと広原勘介が宿成る故、おとなの朝比奈兵衛の尉をもつて申上げるは、彼の山本勘介大剛の者なり、殊更城とり陣取り一切の軍法を能く鍛練いたす、京流の兵法も上手なり、軍配をも存知仕つりたる者なりと申せとも、義元公かこへましまさず、駿河にてモヽ味の人の取りがといの山形は第一片輪者数取り服なり其法は其最を人数もとたずして何とて左様の義存ぜん、今川殿へ奉公に出て度きとて虚言を云ふなりと各申すにより、
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る