政談 / 遊女河原者の種姓の分事並に乞食の締りの事
されは前に云ひたる人返しのこと行はれは新こもかぶり非人の內をも在所を詮議して返へす仕方もあるべし、是は平人の人かへしとは變りて地頭の知行所を治さめ惡しき咎はかりにあらず、御城下の治の惡しき故非人の出てたる咎ふんわけなるへければ、路錢なとは公儀より下さるべきことなり、奉行御役人の御城下に非人多きは奉行の耻なりと云ふことを能く知らは、外にも非人の仕方いかやうにもあるへきことなり、
新字:されは前に云ひたる人返しのこと行はれは新こもかぶり非人の内をも在所を詮議して返へす仕方もあるべし、是は平人の人かへしとは変りて地頭の知行所を治さめ悪しき咎はかりにあらず、御城下の治の悪しき故非人の出てたる咎ふんわけなるへければ、路銭なとは公儀より下さるべきことなり、奉行御役人の御城下に非人多きは奉行の耻なりと云ふことを能く知らは、外にも非人の仕方いかやうにもあるへきことなり、
書き下し
されは前に云ひたる人返しのこと行はれは新こもかぶり非人の内をも在所を詮議して返へす仕方もあるべし、是は平人の人かへしとは変りて地頭の知行所を治さめ悪しき咎はかりにあらず、御城下の治の悪しき故非人の出てたる咎ふんわけなるへければ、路銭なとは公儀より下さるべきことなり、奉行御役人の御城下に非人多きは奉行の耻なりと云ふことを能く知らは、外にも非人の仕方いかやうにもあるへきことなり、
現代語訳
そうであれば、前に述べた人返し(流入者を故郷へ帰すこと)が行われるなら、新こもかぶりや非人の中からも、在所を取り調べて返す手立てもあるだろう。これは平人の人返しとは違って、地頭(領主)の知行所の治め方が悪かった咎だけではない。城下の治めが悪いために非人が出てきたという咎の分担でもあるので、路銀などは公儀から下されるべきである。奉行や役人が「城下に非人が多いのは奉行の恥だ」ということをよく知るならば、ほかにも非人への手立てはいくらでもあるはずである。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
-
『政談』當時制度之なき事其大名に優るものはしまふた屋の町人なり、商買のたくひに列すれとも商買の業もなし、金銀を所持すれとも世話六ケ敷けれは、金貸もせす、唯た夥しき町屋を持ち其店貸にて、安楽に耽る上に、仕ふる君も無れは恐しきものなし、役儀もなけれは心遣ひ更になし、下に治むへき民もなく家来もなく、又武士の作法義理と云ふこともなく、衣服より食事家居まで其奢り大名に等し、附従ひ出入りするもの巳れか機嫌を取るもの計りなり、遊山のことは傾城町野郎町を心の儘に歩けとも誰れ咎むる人もなく、又た恐るゝ人もなし、其外の慰みも心の儘にて誰を憚かることなし、賊に今の世に南面王の楽と云ふは此ことなり、是武家皆旅宿の境界にて制度なき世界故知行の米を売払て金にして商人を頼みて用を足さねは、今日立難きことなるによりて商人の勢ひ盛になるより自然と商人の内に斯の如き極楽世界は出来る事也、世界困窮の本大槩右に云ひたる旅宿の境界にて、世話しなき風俗と制度なきとの仔細によることなれは困窮の直し方左の如し、
-
史記 趙世家趙衰、重耳に従ひて出亡すること凡そ十九年、国に反ることを得たり。重耳晋の文公と為り、趙衰原の大夫と為り、原に居り、国政に任ず。文公の国に反り及び霸たる所以は、多く趙衰の計策なり。語は晋の事の中に在り。趙衰既に晋に反り、晋の妻固く翟の妻を迎へんことを要め、而して其の子盾を以て適嗣と為し、晋の妻の三子皆下りて之に事ふ。晋の襄公の六年にして趙衰卒し、諡して成季と為す。趙盾、成季に代はりて国政に任ずること二年にして晋の襄公卒す。太子夷皋年少し。盾、国の多難なるが為に、襄公の弟雍を立てんと欲す。雍時に秦に在り。使をして之を迎へしむ。太子の母日夜啼泣し、頓首して趙盾に謂ひて曰く、「先君何の罪かある。其の適子を釈きて更に君を求むるか」と。趙盾之を患へ、其の宗と大夫との襲ひて之を誅せんことを恐れ、乃ち遂に太子を立つ、是を霊公と為す。兵を発して襄公の弟を秦に迎ふる所の者を距ぐ。霊公既に立ち、趙盾益々国政を専らにす。霊公立ちて十四年、益々驕る。趙盾驟々諫むれども、霊公聴かず。熊蹯を食らふに及び、胹て熟せず、宰人を殺し、其の尸を持ちて出づ。趙盾之を見る。霊公此に由りて懼れ、盾を殺さんと欲す。盾素より仁にして人を愛す。嘗て食はせし所の桑下の餓人、反りて捍ぎて盾を救ふ。盾以て亡ぐるを得たり。未だ境を出でずして、趙穿霊公を弑して襄公の弟黒臀を立つ、是を成公と為す。趙盾復た反りて国政に任ず。君子盾を譏る、「正卿と為りて、亡げて境を出でず、反りて賊を討たず」と。故に太史書して曰く「趙盾其の君を弑す」と。晋の景公の時にして趙盾卒し、諡して宣孟と為す。子朔嗣ぐ。趙朔、晋の景公の三年、朔晋の将として下軍に将として鄭を救ひ、楚の荘王と河上に戦ふ。朔、晋の成公の姊を娶りて夫人と為す。晋の景公の三年、大夫屠岸賈、趙氏を誅せんと欲す。初め、趙盾在りし時、夢に叔帯の要を持ちて哭するを見る。甚だ悲し。已にして笑ひ、手を拊ちて且つ歌ふ。
-
史記 韓長孺列伝恢曰く、「始め約すらく、虜馬邑の城に入り、兵単于と接せば、臣其の輜重を撃ちて、利を得べしと。今単于聞きて、至らずして還る。臣三万人の衆を以て敵せず、禔だ辱めを取らんのみ。臣固より還らば斬られんことを知る。然れども陛下の士三万人を完うするを得たり」と。是に於て恢を廷尉に下す。廷尉恢を逗橈に当て、斬に当つ。恢私かに千金を丞相蚡に行る。蚡敢へて上に言はず、而して太后に言ひて曰く、「王恢首として馬邑の事を造る。今成らずして恢を誅するは、是れ匈奴の為に仇を報ずるなり」と。上太后に朝す。太后丞相の言を以て上に告ぐ。上曰く、「首として馬邑の事を為す者は、恢なり。故に天下の兵数十万を発し、其の言に従ひて、此を為す。且つ単于を縦ちて得べからざるも、恢の部する所其の輜重を撃たば、猶ほ頗る得べく、以て士大夫の心を慰めん。今恢を誅せずんば、以て天下に謝する無し」と。是に於て恢之を聞き、乃ち自殺す。
-
史記 李将軍列伝広大将軍に謝せずして起ちて行き、意甚だ慍怒して部に就き、兵を引きて右将軍食其と軍を合はせて東道より出づ。軍に導亡く、或いは道を失ひ、大将軍に後る。大将軍単于と接戦し、単于遁走し、得る能はずして還る。南のかた幕を絶りて、前将軍・右将軍に遇ふ。広已に大将軍に見え、還りて軍に入る。大将軍長史をして糒醪を持ちて広に遺らしめ、因りて広・食其の道を失ひし状を問ふ。青書を上りて天子に軍の曲折を報ぜんと欲す。広未だ対へず。大将軍長史をして急に広を責めて幕府に之きて簿に対へしむ。広曰く、「諸校尉は罪無し。乃ち我自ら道を失へり。吾今自ら簿に上らん」と。莫府に至り、広其の麾下に謂ひて曰く、「広結髪より匈奴と大小七十余戦す。今幸ひに大将軍に従ひて出でて単于の兵に接す。而るに大将軍又広の部を徙して行くこと回遠にし、而して又迷ひて道を失ふ。豈に天に非ずや。且つ広は年六十余なり。終に復た刀筆の吏に対する能はず」と。遂に刀を引きて自剄す。広の軍の士大夫一軍皆哭す。百姓之を聞き、知ると知らざると、老壮と無く皆為に涕を垂る。
-
『春秋左氏伝』文公元年 秦伯、孟明を責めず殽の役、晉人既に秦の師を歸す。秦の大夫及び左右皆秦伯に言ひて曰く、「是の敗や、孟明の罪なり。必ず之を殺せ」と。秦伯曰く、「是れ孤の罪なり。周の芮良夫の詩に曰く、『大風隧(みち)有り、貪人類を敗る。聽言には則ち對へ、誦言には醉へるが如し。其の良を用ゐず、覆つて我をして悖らしむ』と。是れ貪の故なり、孤の謂なり。孤實に貪りて以って夫子に禍す。夫子何の罪かあらん」と。復た政を為さしむ。
-
『墨子』魯問子墨子、齊の大王に見えて曰く、「今、刀、此に有り。之を人の頭に試み、倅然として之を斷たば、利しと謂う可きか」と。大王曰く、「利し」と。子墨子曰く、「多く之を人の頭に試み、倅然として之を斷たば、利しと謂う可きか」と。大王曰く、「利し」と。子墨子曰く、「刀は則ち利し。孰れか将に其の不祥を受けんとする」と。大王曰く、「刀は其の利を受け、試む者は其の不祥を受く」と。子墨子曰く、「國を并せ軍を覆し、百姓を賊虐すれば、孰れか将に其の不祥を受けんとする」と。大王、俯仰して之を思いて曰く、「我れ其の不祥を受けん」と。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る