政談 / 遊女河原者の種姓の分事並に乞食の締りの事
斯の如く遊女河原者の平人に混するよりして、遊女野郞の風俗平人に移り、當時は大名高位の詞つかいにも傾城町野郞町の言葉を遠慮なくつかひ、武家の妻娘も傾城野郞の眞似をして恥といふことを知らず、是は當代のはやりとなり、苦しからざることなり、之を眞似ぬは田舎ものなりといひのゝしりて、風俗以ての外に惡しくなること皆種姓の混亂より起る、古法の如く種姓を正し、遊女河原者の子を男をば野郞にし女をば遊女とし、平人とは混ずることを堅く禁じたらばこの惡風自から巳むべきなり、比丘尼にも平人よりなることを堅く禁じて、比丘尼は子を比丘尼とし種姓を極むべきことなり、
新字:斯の如く遊女河原者の平人に混するよりして、遊女野郎の風俗平人に移り、当時は大名高位の詞つかいにも傾城町野郎町の言葉を遠慮なくつかひ、武家の妻娘も傾城野郎の真似をして恥といふことを知らず、是は当代のはやりとなり、苦しからざることなり、之を真似ぬは田舎ものなりといひのゝしりて、風俗以ての外に悪しくなること皆種姓の混乱より起る、古法の如く種姓を正し、遊女河原者の子を男をば野郎にし女をば遊女とし、平人とは混ずることを堅く禁じたらばこの悪風自から巳むべきなり、比丘尼にも平人よりなることを堅く禁じて、比丘尼は子を比丘尼とし種姓を極むべきことなり、
書き下し
斯の如く遊女河原者の平人に混するよりして、遊女野郎の風俗平人に移り、当時は大名高位の詞つかいにも傾城町野郎町の言葉を遠慮なくつかひ、武家の妻娘も傾城野郎の真似をして恥といふことを知らず、是は当代のはやりとなり、苦しからざることなり、之を真似ぬは田舎ものなりといひのゝしりて、風俗以ての外に悪しくなること皆種姓の混乱より起る、古法の如く種姓を正し、遊女河原者の子を男をば野郎にし女をば遊女とし、平人とは混ずることを堅く禁じたらばこの悪風自から巳むべきなり、比丘尼にも平人よりなることを堅く禁じて、比丘尼は子を比丘尼とし種姓を極むべきことなり、
現代語訳
このように遊女や河原者が平人に混じるところから、遊女や野郎(男色を売る役者)の風俗が平人に移り、今では大名や高位の人の言葉づかいにも傾城町(遊里)や野郎町の言葉を遠慮なく使い、武家の妻や娘も遊女や野郎の真似をして恥ということを知らない。これは当代のはやりとなり、構わないことだとされ、これを真似ない者は田舎者だと罵って、風俗がもってのほかに悪くなった。これはみな出自の混乱から起こる。古法のとおりに出自を正し、遊女・河原者の子は男なら野郎に、女なら遊女として、平人と混じることを堅く禁じたなら、この悪風は自然とやむはずである。比丘尼(歌比丘尼など)にも平人からなることを堅く禁じ、比丘尼の子は比丘尼として出自を決めるべきである。
解説
この章句が説くこと
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