政談 / 浪人並に道心者締り等の事
花月のうたひ又義經記なと云ふ雙紙を見れは、山伏は兒を携へて僧と替りなし、眞言天台の道塲にて僧と一つに學問したることなるに、いつのまにか僧とは各別の者になりて、勤行の作法等も修法の躰の別なり、只眞言天台に屬したるまてのことな吉野の僧も中頃は皆妻帶なり、然れとも此の四五十年以來世文明になりて、皆いつれも妻帶をやめて今は清僧となりたりと云ふ、山伏なとも其の本山よりの誘ひによりて清僧になるへき仕方もあるへし、
新字:花月のうたひ又義経記なと云ふ双紙を見れは、山伏は児を携へて僧と替りなし、真言天台の道塲にて僧と一つに学問したることなるに、いつのまにか僧とは各別の者になりて、勤行の作法等も修法の体の別なり、只真言天台に属したるまてのことな吉野の僧も中頃は皆妻帯なり、然れとも此の四五十年以来世文明になりて、皆いつれも妻帯をやめて今は清僧となりたりと云ふ、山伏なとも其の本山よりの誘ひによりて清僧になるへき仕方もあるへし、
書き下し
花月のうたひ又義経記なと云ふ双紙を見れは、山伏は児を携へて僧と替りなし、真言天台の道塲にて僧と一つに学問したることなるに、いつのまにか僧とは各別の者になりて、勤行の作法等も修法の体の別なり、只真言天台に属したるまてのことな吉野の僧も中頃は皆妻帯なり、然れとも此の四五十年以来世文明になりて、皆いつれも妻帯をやめて今は清僧となりたりと云ふ、山伏なとも其の本山よりの誘ひによりて清僧になるへき仕方もあるへし、
現代語訳
謡曲の『花月』や『義経記』などの草子を見ると、山伏は稚児を連れていて僧と変わりがなく、真言・天台の道場で僧と一緒に学問していたのである。それがいつの間にか僧とは別の者になって、勤行の作法なども修法の様式も別になった。ただ真言・天台に属しているというだけのことである。吉野の僧も中世の頃はみな妻帯していた。しかしこの四、五十年来、世の中が文明に開けて、みな妻帯をやめて今は清僧(戒律を守る僧)となったという。山伏なども、その本山からの働きかけによって清僧にさせる手立てもあるだろう。
解説
この章句が説くこと
関連する章句
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『徂徠先生答問書』卷中又愚老ごときの年はや五十にも成候人の、身の内に疝気つかへも痰も有之。気血も弱成候人を、扁鵲に見せたり共廿歳計の頃の健さには返されぬ物に候。身の内に年久敷有之候病は、如何に療治仕候ても、のけられぬ物にて候。粗忽なる医者は、当分の見処に任せ、こと〴〵くに治せんと仕候故、病は愈不申、元気をそこなひ命を縮むる類多御座候。此道理を能々会得仕候得ば、祖宗の法は改めぬ物と古人の被申候は誠に名言と存候。治乱盛衰の道も御明らめなく、人情世態に熟練なく候て、当分の是非目前の利害を思召候分にては、国の古法を改め候事は不宜事の至極に候。
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『政談』制度の事右の如く衣服等の制度を定めんにはかはり目のきわ境なくては叶はさること也、先つ東照宮へ御告あるへきことなり、日光御社参を仰せ出され、二年三年も前より御供廻の装束、諸大名の参詣の装束此度は斯の如くあるへしと号令ありて篤と支度させ、夫より直に平日に用ゆるやうに有りたきことなり、右一同上下仕換ゆることなれは、我人悪しきと、又例の手くせを出し利をまうけんとたくむへけれは、其の手当あるへきこと也、右の如く武家の制度を委細に立つること倹約の至極なれとも、諸事を新たに仕換ゆることなれは、当時困窮したる世界にては次第なく急にはなりかたかるへし、只先つ道中幷に御城下は幾何の供廻りを減少し、諸大名は江戸詰の家来を少くし、銭を鋳、貸借の道を開き、御旗本の諸士家中の武士のことは先つ其の儘にし置き、諸事の簡易に取捌くはかりにして最初に町人百姓と武家との差別を急度立つへきことなり、一切の事大そうなる事は先つ粗を立てゝ後に細にするときは仕よきものあり、前後緩急のついでとはこれを云ふなり、
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『新論』守禦夫れ内政修まり、軍令飭ひ、邦国富み、守備班たば、則ち天下の宜しく釐革すべき所の者、大綱挙がる。大綱挙がれば、則ち其の瑣瑣たる者も亦た将に随ひて振起せんとす。夫れ英雄は時を相て変に処す。昔時未だ設けざる所にして、今日宜しく創立すべき所の者、亦た安んぞ熟思して之を講明せざるを得んや。臣を以て之を策すれば曰く、屯兵を設く、曰く、斥候を明らかにす、曰く、水兵を繕ふ、曰く、火器を練る、曰く、資糧を峙ふ。是の五者は、以て創立せざるべからざるなり。
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『春秋左氏伝』昭公四年 苟も社稷を利せば九月、鄫を取る。易きを言ふなり。莒亂る。著丘公立ちて鄫を撫せず。鄫叛きて來る。故に取ると曰ふ。凡そ邑に克ちて、師徒を用ゐざるを取ると曰ふ。鄭の子產丘賦を作る。國人之を謗りて曰く、「其の父は路に死し、己は蠆尾(たいび)と為りて、以て國に令す。國將に之を若何せん」と。子寬以て告ぐ。子產曰く、「何ぞ害あらん。苟も社稷を利せば、死生之を以てせん。且つ吾聞く、善を為す者は其の度を改めず、故に能く濟すこと有りと。民は逞(ほしいまま)にすべからず、度は改むべからず。詩に曰く、『禮義愆(あやま)たずんば、何ぞ人の言を恤へん』と。吾遷らず」と。渾罕曰く、「國氏其れ先づ亡びんか。君子法を涼(うす)きに作るも、其の敝は猶ほ貪なり。法を貪に作らば、敝將に之を若何せん。姬の列に在る者、蔡及び曹・滕、其れ先づ亡びんか。偪(せま)りて禮無し。鄭は衛に先だちて亡びん。偪りて法無し。政法に率(したが)はずして、心に制す。民各心有り、何の上か之れ有らん」と。冬、吳楚を伐ちて、棘・櫟・麻に入る。以て朱方の役に報ゆるなり。楚の沈尹射夏汭に奔命す。咸尹宜咎鍾離に城き、薳啟疆巢に城き、然丹州來に城く。東國水あり、以て城くべからず。彭生賴の師を罷む。
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史記 袁盎鼂錯列伝其の弁を以て太子に幸を得、太子の家号して「智嚢」と曰ふ。数(しばしば)孝文の時に上書し、諸侯を削る事、及び法令の更定すべき者を言ふ。書数十たび上るも、孝文聴かず、然れども其の材を奇とし、遷して中大夫と為す。是の時に当たり、太子錯の計策を善しとし、袁盎・諸大功臣多く錯を好まず。景帝即位し、錯を以て内史と為す。錯常に数(しばしば)閒を請ひて事を言ひ、輒ち聴かれ、寵幸九卿を傾け、法令多く更定する所あり。丞相申屠嘉心に便とせず、力未だ以て傷つくる有らず。内史の府は太上廟の壖(ぜん)中に居り、門東に出で、便ならず。錯乃ち両門を穿ちて南に出だし、廟の壖垣を鑿つ。丞相嘉聞き、大いに怒り、此の過ちに因りて奏請して錯を誅せんと欲す。錯之を聞き、即ち夜閒を請ひ、具さに上の為に之を言ふ。丞相事を奏し、因りて錯擅に廟垣を鑿ちて門と為す、廷尉に下して誅せんことを請ふと言ふ。上曰く、「此れ廟垣に非ず、乃ち壖中の垣なり、法に致さず」と。丞相謝す。朝を罷め、怒りて長史に謂ひて曰く、「吾当に先づ斬りて以て聞すべきに、乃ち先づ請ひ、児の売る所と為る、固より誤れり」と。丞相遂に病を発して死す。錯此を以て愈(いよい)よ貴し。遷りて御史大夫と為り、諸侯の罪過を請ひ、其の地を削り、其の枝郡を収めんとす。奏上し、上公卿列侯宗室をして集議せしむ。敢へて難ずる莫く、独り竇嬰之を争ふ。此に由りて錯と卻(げき)有り。錯の更むる所の令三十章、諸侯皆諠譁して鼂錯を疾む。錯の父之を聞き、潁川より来たり、錯に謂ひて曰く、「上初めて即位し、公政を為して事を用ひ、諸侯を侵削し、人の骨肉を別疏す。人口議して多く公を怨む者は、何ぞや」と。鼂錯曰く、「固よりなり。此の如くならずんば、天子尊からず、宗廟安からず」と。錯の父曰く、「劉氏は安けれども、鼂氏は危ふし。吾公を去りて帰らん」と。遂に薬を飲みて死し、曰く、「吾禍の吾が身に及ぶを見るに忍びず」と。
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『講孟余話』滕文公上 第三章余をして横渠の時に生れしめば、必ず此の事を成さん者をと思へども、幽明道遥かにして詮方なし。況や今囹圄の囚となり、志ありと云へども遂ぐべき様なし。徒に横渠の説を読みて感涙胸を沽すのみ。但し横渠の説は田を画し井となすか最も用意の所と見えたり。仁政は経界より始まるとあれば、此の事固より要務にはあるべけれど、是れは法制に係りたることにて、万一人情に合し土俗に宜からぬことあれば、大いに民間を擾乱するに至る。故に夫れよりは此の一節に云ふ所の実を主として行ひ度きことなり。
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