政談 / 戶籍の事
さて戶籍の法を立つるには江戶も田舍も國々も其所にこの人をきわむることなれは、先つ人數惣高の積りあるへし、古は地をはかりて民をおくと云ふことなり、六十餘州悉く一國々々の人別を見て、さて御城下の人と關八州の人との惣人數を考へ、關八州より出る米穀にて御城下並に關八州の人の一年の食事足るつもりをかね合せにして御城下の人數を定むへし、諸國より來たる旅人並に諸大名の家來は外なるへし、これ諸國より來たる米を食するつもりにすへし、當時御城下に居るもの多く諸國のものなれは、右の限りを以て御城下の人數を限り、その外は悉く諸國へ返すへし、返す仕方はその地頭々々に申付けて人返しさすへきなり、
新字:さて戸籍の法を立つるには江戸も田舎も国々も其所にこの人をきわむることなれは、先つ人数惣高の積りあるへし、古は地をはかりて民をおくと云ふことなり、六十余州悉く一国々々の人別を見て、さて御城下の人と関八州の人との惣人数を考へ、関八州より出る米穀にて御城下並に関八州の人の一年の食事足るつもりをかね合せにして御城下の人数を定むへし、諸国より来たる旅人並に諸大名の家来は外なるへし、これ諸国より来たる米を食するつもりにすへし、当時御城下に居るもの多く諸国のものなれは、右の限りを以て御城下の人数を限り、その外は悉く諸国へ返すへし、返す仕方はその地頭々々に申付けて人返しさすへきなり、
書き下し
さて戸籍の法を立つるには江戸も田舎も国々も其所にこの人をきわむることなれは、先つ人数惣高の積りあるへし、古は地をはかりて民をおくと云ふことなり、六十余州悉く一国々々の人別を見て、さて御城下の人と関八州の人との惣人数を考へ、関八州より出る米穀にて御城下並に関八州の人の一年の食事足るつもりをかね合せにして御城下の人数を定むへし、諸国より来たる旅人並に諸大名の家来は外なるへし、これ諸国より来たる米を食するつもりにすへし、当時御城下に居るもの多く諸国のものなれは、右の限りを以て御城下の人数を限り、その外は悉く諸国へ返すへし、返す仕方はその地頭々々に申付けて人返しさすへきなり、
現代語訳
さて戸籍の法を立てるには、江戸も田舎も国々も、その土地にその人を定めることなので、まず人数の総高の見積もりがあるべきである。古は土地を測って民を置くということであった。六十余州ことごとく一国ごとの人別を見て、さて御城下の人と関八州の人との総人数を考え、関八州から出る米穀で御城下ならびに関八州の人の一年の食事が足りる見積もりを兼ね合わせにして、御城下の人数を定めるべきである。諸国から来る旅人や諸大名の家来は別である。これは諸国から来る米を食べる見積もりにすべきである。今、御城下にいる者は多くが諸国の者なので、右の限りによって御城下の人数を限り、そのほかはことごとく諸国へ返すべきである。返すやり方は、その地頭ごとに申しつけて人返しをさせるべきである。
解説
この章句が説くこと
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