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柳子新論抄録 / 文武・文官と武官は牛と馬のように違う

綴兆舞佾。且不知其爲何設哉。蒙昧至此。再復帥莽。唯人不可無制。亦不可無儀也。則私智妄作。不能不以此易彼。而夷禮於是乎起矣。橫臂脅肩。驕傲之容。以跋扈乎朝廷之間。婬娃殺伐。靡慢之伎。以踊躍乎廟堂之上。彼所謂淫樂瀆禮。不容於先王朝者。公然爲天下之經矣。即小民生其間。而目不知一丁者。以此爲美觀。固不足怪已。若夫稍知事情。而與國家之職者。宛然見其如此乎。爲恥莫甚焉。不尙文之弊。寧至于此哉。且其爲尙武者。吾又未爲然也。夫官之分文武。以其不可相兼也。譬如牛與馬也。馬能致遠。牛能任重。性蓋爲爾。若使馬也任重牛也致遠乎。皆所不堪也。今夫任文者。所學詩書禮樂。故其爲人也。溫柔敦厚。慣以爲德。大之則卿相。小之則府吏。蓋其能也。假令其破堅執銃。在師旅之間。亦焉見賁育之功哉。若其任武者。所執矛楯鉄鉞。故其爲人也。威猛精烈。習以爲性。大之則將帥。小之則騎卒。蓋其當也。假令其結纓垂紳。行俎豆之事。亦焉見海夏之容哉。是其不可相攝以見已。今也天下之爲士者。列已廣。冗員倍多。亦唯便宜執事。非文非武。彼將以何爲任乎。邊豆之事。則不知也。軍旅事。能出其謀者。蓋鮮矣。甚者終身不執一兵。而手如柔荑。顏如蕣花。侯駕而後行。侯茵而後坐。

新字:綴兆舞佾。且不知其為何設哉。蒙昧至此。再復帥莽。唯人不可無制。亦不可無儀也。則私智妄作。不能不以此易彼。而夷礼於是乎起矣。横臂脅肩。驕傲之容。以跋扈乎朝廷之間。婬娃殺伐。靡慢之伎。以踊躍乎廟堂之上。彼所謂淫楽瀆礼。不容於先王朝者。公然為天下之経矣。即小民生其間。而目不知一丁者。以此為美観。固不足怪已。若夫稍知事情。而与国家之職者。宛然見其如此乎。為恥莫甚焉。不尚文之弊。寧至于此哉。且其為尚武者。吾又未為然也。夫官之分文武。以其不可相兼也。譬如牛与馬也。馬能致遠。牛能任重。性蓋為爾。若使馬也任重牛也致遠乎。皆所不堪也。今夫任文者。所学詩書礼楽。故其為人也。温柔敦厚。慣以為徳。大之則卿相。小之則府吏。蓋其能也。仮令其破堅執銃。在師旅之間。亦焉見賁育之功哉。若其任武者。所執矛楯鉄鉞。故其為人也。威猛精烈。習以為性。大之則将帥。小之則騎卒。蓋其当也。仮令其結纓垂紳。行俎豆之事。亦焉見海夏之容哉。是其不可相摂以見已。今也天下之為士者。列已広。冗員倍多。亦唯便宜執事。非文非武。彼将以何為任乎。辺豆之事。則不知也。軍旅事。能出其謀者。蓋鮮矣。甚者終身不執一兵。而手如柔荑。顔如蕣花。侯駕而後行。侯茵而後坐。

書き下し

綴兆舞佾、且つ其の何の爲に設くるかを知らず。蒙昧此に至る。再び帥莽に復る。唯だ人は制無かるべからず、亦儀無かるべからず。則ち私智妄作し、此を以て彼に易へざること能はずして、夷禮是に於いて起こる。臂を橫たへ肩を脅かし、驕傲の容もて、以て朝廷の間に跋扈し、婬娃殺伐、靡慢の伎もて、以て廟堂の上に踊躍す。彼の所謂淫樂禮を瀆し、先王の朝に容れられざる者、公然として天下の經と爲れり。即ち小民其の間に生まれて、目に一丁を知らざる者、此を以て美觀と爲すは、固より怪しむに足らざるのみ。若し夫れ稍や事情を知りて、國家の職に與る者にして、宛然として其の此くの如きを見んや。恥と爲すこと焉より甚だしきは莫し。文を尙ばざるの弊、寧ぞ此に至らんや。且つ其の武を尙ぶと爲す者も、吾又未だ然りとせざるなり。夫れ官の文武を分かつは、其の相兼ぬべからざるを以てなり。譬へば牛と馬との如し。馬は能く遠きを致し、牛は能く重きに任ず。性蓋し爾り。若し馬をして重きに任ぜしめ、牛をして遠きを致さしめば、皆堪へざる所なり。今夫れ文に任ずる者は、學ぶ所は詩書禮樂、故に其の人と爲りや、溫柔敦厚、慣れて以て德と爲す。大なれば則ち卿相、小なれば則ち府吏、蓋し其の能なり。假令ひ其れ堅を破り銃を執りて、師旅の間に在りとも、亦焉んぞ賁育の功を見んや。若し其の武に任ずる者は、執る所は矛楯鉄鉞、故に其の人と爲りや、威猛精烈、習ひて以て性と爲す。大なれば則ち將帥、小なれば則ち騎卒、蓋し其の當なり。假令ひ其れ纓を結び紳を垂れ、俎豆の事を行ふとも、亦焉んぞ海夏の容を見んや。是れ其の相攝ぬべからざるを以て見るのみ。今や天下の士たる者、列已に廣く、冗員倍多し。亦唯だ便宜に事を執り、文に非ず武に非ず、彼は將に何を以て任と爲さんとするか。邊豆の事は則ち知らざるなり。軍旅の事、能く其の謀を出だす者は、蓋し鮮なし。甚だしき者は終身一兵を執らずして、手は柔荑の如く、顏は蕣花の如し。駕を侯ちて而る後に行き、茵を侯ちて而る後に坐す。

現代語訳

(礼楽の舞の)綴兆や舞佾(舞人の列)も、何のために設けられたのかさえ知られていません。蒙昧もここに極まり、再び未開の草むらに戻ったかのようです。ただ、人には制度がなくてはならず、儀礼もなくてはなりません。そこで人は私的な知恵で勝手に作り、あれをこれに取り替えてしまい、異国風の礼がここから起こりました。腕を横に張り肩をそびやかす驕り高ぶった姿で朝廷にのさばり、淫らで殺伐とした、だらしない芸で廟堂の上を跳ね回ります。いわゆる淫らな音楽が礼を汚し、古の王の朝廷では容れられなかったものが、公然と天下の常道になっています。そうした中に生まれた庶民で、一つの文字も知らない者が、これを美しい見ものと思うのは、もとより怪しむに足りません。しかし、いくらか事情を知り、国家の職に就く者が、これをそのまま見てよいのでしょうか。これ以上の恥はありません。文を尊ばない弊害は、ここまで来てしまったのです。そのうえ、武を尊んでいると称する者も、私はそうとは認めません。そもそも官を文と武に分けるのは、両方を兼ねられないからです。たとえば牛と馬のようなもので、馬は遠くまで行くことができ、牛は重い荷を負うことができます。性質がそうなのです。もし馬に重い荷を負わせ、牛に遠くまで走らせれば、どちらも耐えられません。さて、文を担う者は、詩・書・礼・楽を学ぶので、人柄は穏やかで情が厚く、それを身につけて徳としています。大きくは大臣、小さくは役所の役人となるのが、その持ち場でしょう。たとえ堅陣を破り銃を執って軍中にいても、賁・育(古の勇士)のような功績は見られません。武を担う者は、矛・盾・斧を執るので、人柄は勇猛で激しく、習慣が性となっています。大きくは将帥、小さくは騎兵となるのが、その持ち場でしょう。たとえ冠のひもを結び大帯を垂れて、祭祀の儀礼を行っても、中華のような立ち居振る舞いは見られません。これは、互いに兼ねられないということがわかります。今、天下の士となる者は、その列がすでに広がり、余分な人員が倍ほどに増えています。ただその場しのぎに事を執り、文でも武でもありません。彼らは何を職務としているのでしょうか。祭祀の器の扱いも知らず、軍事で計略を出せる者もまれです。ひどい者は、生涯一つの武器も執らず、手は柔らかい草の芽のよう、顔はむくげの花のようで、駕籠を待ってから行き、敷物を待ってから座ります。

解説

山縣大貳は、役人を文と武に分ける理由を、牛は重い荷、馬は遠い道という適性の違いでたとえました。そのうえで、今の士は文でも武でもない余剰の人員だと嘆いています。いまの組織に置き換えると、役職や肩書があっても実際の専門性や果たす役割が曖昧なままでは、責任の所在もぼやけるという指摘になります。人員の配置では、適性に合った持ち場を与えることと、肩書に見合う実力を磨かせることを両方確かめたいものです。

この章句が説くこと

柳子新論抄録山県大貳文武適材適所役割名と実

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