論衡 / 『論衡』薄葬篇第六十七・耳目だけで論じない
夫論不留精澄意、苟以外效立事是非、信聞見於外、不詮訂於內、是用耳目論、不以心意議也。夫以耳目論、則以虛象為言;虛象效、則以實事為非、是故是非者不徒耳目、必開心意。
新字:夫論不留精澄意、苟以外効立事是非、信聞見於外、不詮訂於内、是用耳目論、不以心意議也。夫以耳目論、則以虚象為言;虚象効、則以実事為非、是故是非者不徒耳目、必開心意。
書き下し
夫れ論ずるに精を留め意を澄まさず、苟くも外の効を以て事の是非を立て、聞見を外に信じて、内に詮訂せざるは、是れ耳目を用いて論じ、心意を以て議せざるなり。夫れ耳目を以て論ずれば、則ち虚象を以て言を為す。虚象効あれば、則ち実事を以て非と為す。是の故に是非は徒に耳目のみならず、必ず心意を開く。
現代語訳
議論をするのに、精神を集中して心を澄ますことをせず、ただ外に現れた証拠で物事の是非を決め、見聞を外側で信じ込んで内側で吟味しないのは、耳と目だけで論じ、心で議論していないということです。耳と目で論じれば、実体のない現象を根拠に語ることになります。そして実体のない現象が証拠として通用してしまえば、本当の事実のほうを間違いだとしてしまいます。だから是非の判断は、耳と目だけでなく、必ず心と考えを働かせなければなりません。
解説
王充は薄葬を論じる篇で、墨家が杜伯の幽霊の話を証拠に鬼の存在を説いたことを批判します。見聞した事例を並べるだけで内側で吟味しない議論は、証拠がそろっているように見えても事実を取り違える、という指摘です。『論衡』は後漢の王充が俗説や通説を実証と論理で確かめた書で、ここにも証拠と推論の両方が要るという立場がよく表れています。現代の会議でも、成功事例や数字を並べるだけで結論が決まることがあります。目に見える資料を、前提や因果から自分の頭で確かめ直す。その一手間が判断の質を分けます。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
耳目心意虚象実事吟味証拠
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