論衡 / 『論衡』須頌篇第六十・同じ物差しを立てて測る
湖池非一、廣狹同也、樹竿測之、深淺可度。漢與百代俱為主也、實而論之、優劣可見。故不樹長竿、不知深淺之度;無《論衡》之論、不知優劣之實。
新字:湖池非一、広狭同也、樹竿測之、深浅可度。漢与百代倶為主也、実而論之、優劣可見。故不樹長竿、不知深浅之度;無《論衡》之論、不知優劣之実。
書き下し
湖池は一に非ざるも、広狭同じなり。竿を樹てて之を測れば、深浅度る可し。漢と百代と倶に主たるなり。実にして之を論ずれば、優劣見る可し。故に長竿を樹てざれば深浅の度を知らず、『論衡』の論無ければ優劣の実を知らず。
現代語訳
湖や池はいくつもありますが、広さは同じ程度です。竿を立てて測れば、深さも浅さも量れます。漢と歴代の王朝は、どれも天下の主でした。実質に即して論じれば、優劣は見えてきます。ですから、長い竿を立てなければ深さの度合いは分からず、『論衡』のような論がなければ、優劣の実際は分かりません。
解説
王充は、漢を過去の王朝と比べるために、竿を立てて測るという方法をたとえに出します。測るものが同程度の大きさなら、同じ物差しを当てれば優劣が分かるという考えです。『論衡』のこの篇は漢を称える立場で、結論は割り引いて読む必要がありますが、比べる前に測り方を揃えよという点は実務にも役立ちます。部署や人の成績を比べるとき、条件や基準が違えば優劣は出ません。何を、どの竿で測るのか。比較の前に、まず物差しを決める習慣を思い出させる箇所です。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
物差し比較実質優劣竿評価基準
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