論衡 / 『論衡』講瑞篇第五十・人物の見極めには三年かかる
世人之知聖、亦猶此也。聞聖人人之奇者、身有奇骨、知能博達、則謂之聖矣。及其知之、非卒見暫聞而輒名之為聖也、與之偃伏、從(文)〔之〕受學、然後知之。何以明之?子貢事孔子一年、自謂過孔子;二年、自謂與孔子同;三年、自知不及孔子。當一年、二年之時、未知孔子聖也;三年之後、然乃知之。以子貢知孔子、三年乃定。世儒無子貢之才、其見聖人不從之學、任倉卒之視、無三年之接、自謂知聖、誤矣!
新字:世人之知聖、亦猶此也。聞聖人人之奇者、身有奇骨、知能博達、則謂之聖矣。及其知之、非卒見暫聞而輒名之為聖也、与之偃伏、従(文)〔之〕受学、然後知之。何以明之?子貢事孔子一年、自謂過孔子;二年、自謂与孔子同;三年、自知不及孔子。当一年、二年之時、未知孔子聖也;三年之後、然乃知之。以子貢知孔子、三年乃定。世儒無子貢之才、其見聖人不従之学、任倉卒之視、無三年之接、自謂知聖、誤矣!
書き下し
世人の聖を知るも、亦た猶お此くのごとし。聖人は人の奇なるものなりと聞き、身に奇骨有り、知能博達なれば、則ち之を聖と謂う。其の之を知るに及びては、卒かに見暫く聞きて輒ち名づけて聖と為すに非ず。之と偃伏し、之に従いて学を受け、然る後に之を知る。何を以て之を明らかにせん。子貢は孔子に事うること一年にして、自ら孔子に過ぐと謂い、二年にして自ら孔子と同じと謂い、三年にして自ら孔子に及ばざるを知る。一年二年の時に当たりては、未だ孔子の聖なるを知らず、三年の後、然る乃ち之を知る。子貢の孔子を知るを以てするも、三年にして乃ち定まる。世儒は子貢の才無く、其の聖人を見るに之に従いて学ばず、倉卒の視に任せ、三年の接無くして、自ら聖を知ると謂うは、誤りなり。
現代語訳
世間の人が聖人を見分けるのも、これと同じです。聖人は人の中でも並外れた存在だと聞いて、身体に特別な骨相があり、知恵と才能が広く行き届いていれば、それを聖人と呼びます。しかし、本当に聖人だと分かるのは、ちらりと見たり少し聞いたりしただけで聖人と名づけたときではありません。寝起きを共にし、師として従って学び、そのあとで初めて分かるのです。どうしてそう言えるのか。子貢は孔子に仕えて一年目には、自分は孔子に勝っていると思い、二年目には孔子と同じだと思い、三年目に孔子に及ばないと悟りました。一年目や二年目のころは孔子が聖人だとは分かっておらず、三年たってようやく分かったのです。子貢ほどの人でさえ、孔子を知るのに三年かかって見極めがついたのです。世の儒者には子貢ほどの才もなく、聖人に会っても従って学ばず、慌ただしい一瞥にまかせ、三年の付き合いもないまま、自分は聖人を見分けられると言っています。それは誤りです。
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孔子家語・辯政子貢、孔子に問いて曰わく、「昔者齊君政を夫子に問い、夫子曰わく、『政は財を節するに在り。』と。魯君政を夫子に問い、子曰わく、『政は臣を諭すに在り。』と。葉公政を夫子に問い、夫子曰わく、『政は近きを悅ばしめて遠きを來らしむるに在り。』と。三者の問いは一なるも、夫子之に應ずること同じからず。然らば政は端を異にするか。」孔子曰わく、「各々其の事に因ればなり。齊君國を為むるに、臺榭に奢り、苑囿に淫す。五官の伎樂、時に解けず。一旦にして人に賜うに千乘の家を以てする者三たびす。故に『政は財を節するに在り』と曰う。魯君に臣三人有り。內に比周して、以て其の君を愚にし、外に諸侯の賓を距ぎて、以て其の明を蔽う。故に『政は臣を諭すに在り』と曰う。夫れ荊の地、廣くして都狹し。民離心有り、其の居に安んずる莫し。故に『政は近きを悅ばしめて遠きを來らしむるに在り』と曰う。此の三者、政を為す所以殊なり。詩に云う、『喪亂資無く、曾て我が師を惠まず。』と。此れ奢侈節せざるを傷みて、以て亂と為す者なり。又た曰わく、『其の共を止むるに匪ず、惟れ王の邛なり。』と。此れ奸臣主を蔽うを傷みて、以て亂と為すなり。又た曰わく、『亂離瘼めり、奚くにか其れ適き歸らん。』と。此れ離散を傷みて以て亂と為す者なり。此の三者を察するに、政の欲する所、豈に同じからんや。」
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孔子家語・致思子貢孔子に問いて曰わく、「死者は知有りや、将た知無きや。」 子曰わく、「吾死の知有るを言わんと欲すれば、将た孝子順孫の生を妨げて以て死を送らんことを恐る。吾死の知無きを言わんと欲すれば、将た不孝の子其の親を棄てて葬らざらんことを恐る。賜死者の知有ると知無きとを知らんと欲すること莫かれ。今の急に非ず、後自ら之を知らん。」
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『智囊』辯才・子貢呉、諸侯を会に徴す。衛侯、後れて至る。呉人、衛侯の舎を藩す。子貢、太宰嚭に説いて曰く、「衛君の来たるは、必ず其の衆に謀る。其の衆、或いは欲し或いは否とす。是を以て緩く来たる。其の来たらんと欲する者は、子の党なり。其の来たらんと欲せざる者は、子の仇なり。若し衛侯を執えれば、是れ党を堕して仇を崇ぶなり」と。嚭、説びて、乃ち衛君を舎す。田常、斉に乱を作さんと欲し、高・国・鮑・晏を憚る。故に其の兵を移し、以て魯を伐たんと欲す。孔子、之を聞き、門弟子に謂いて曰く、「夫れ魯は、墳墓の処る所。二三子、何為れぞ出ずる莫き」と。子路、出でんことを請う。孔子、止む。子張・子石、行かんことを請う。孔子、許さず。子貢、請う。孔子、之を許す。遂に行きて斉に至り、田常に説いて曰く、「君の魯を伐つは、過てり。夫れ魯は、伐ち難き国なり。其の城は薄くして卑く、其の地は狭くして泄れ、其の君は愚にして不仁、大臣は偽りにして用無く、其の士民は又た甲兵の事を悪む。此れは与に戦うべからず。君は呉を伐つに如かず。夫れ呉は城高くして厚く、地広くして深く、甲堅くして新しく、士選ばれて飽き、重器精兵、尽く其の中に在り。又た明大夫をして之を守らしむ。此れ伐ち易きなり」と。田常、忿然として色を作して曰く、「子の難しとする所は、人の易しとする所。子の易しとする所は、人の難しとする所。而るに以て常に教うるは、何ぞや」と。子貢曰く、「臣聞く、『憂い内に在る者は強を攻め、憂い外に在る者は弱を攻む』と。
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