孔子家語 / 弟子行
凡此諸子,賜之所親睹者也。吾子有命而訊賜,賜也固不足以知賢。」文子曰:「吾聞之也,國有道則賢人興焉,中人用焉,乃百姓歸之。若吾子之論,既富茂矣。壹諸侯之相也,抑世未有明君,所以不遇也。」
新字:凡此諸子,賜之所親睹者也。吾子有命而訊賜,賜也固不足以知賢。」文子曰:「吾聞之也,国有道則賢人興焉,中人用焉,乃百姓帰之。若吾子之論,既富茂矣。壱諸侯之相也,抑世未有明君,所以不遇也。」
書き下し
凡そ此の諸子は、賜の親しく睹る所の者なり。吾子命ありて賜に訊ぬれば、賜や固より以て賢を知るに足らず。」文子曰わく、「吾れ之を聞く、國に道有れば則ち賢人興り、中人用いられ、乃ち百姓之に歸すと。吾子の論の若きは、既に富茂せり。壹に諸侯の相たるも、抑々世未だ明君有らず、遇わざる所以なり。」
現代語訳
「以上の弟子たちは、私が実際に接して見てきた者たちです。あなた様が仰せになって私に尋ねられましたが、私はもとより人を知り尽くすには到底及びません。」文子は言った。「私はこう聞いている。国に道が行われていれば賢者が世に出て活躍し、並の人物も用いられ、そうして民衆はその国に心を寄せると。あなたの語ってくれた話は、実に豊かで見事なものだ。この人たちは一国の宰相にもなりうる器だが、思うに今の世にはまだ明君が現れていない、それゆえ彼らは重用される機会に恵まれないのだろう。」
解説
子貢は文子に対する長い人物評を、「自分が実際に接した者に限る」という謙遜の言葉で締めくくります。これに対し文子は、国に道が行われているかどうかが賢者の活躍を左右すると述べ、子貢が語った弟子たちの資質の高さを認めつつも、彼らが重用されない理由を「世にまだ明君がいない」ためだと結論づけます。優れた人材がいてもそれを活かす環境や為政者がいなければ埋もれてしまうという指摘は、人材の育成と同じくらい、その人材を活かす土壌づくりが重要であることを教えています。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
子貢衛将軍文子人材登用明君賢者
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