孔子家語 / 屈節解
子貢返五日,越使大夫文種,頓首言於吳王曰:「越悉境內之士三千人以事吳。」吳王告子貢曰:「越王欲身從寡人,可乎?」子貢曰:「悉人之率眾,又從其君,非義也。」吳王乃受越王卒,謝留勾踐。遂自發國內之兵以伐齊,敗之。子貢遂北見晉君,令承其弊。吳晉遂遇於黃池,越王襲吳之國,吳王歸與越戰,滅焉。孔子曰:「夫其亂齊存魯,吾之始願。若能強晉以弊吳,使吳亡而越霸者,賜之說之也。美言傷信,慎言哉。」
新字:子貢返五日,越使大夫文種,頓首言於吳王曰:「越悉境內之士三千人以事吳。」吳王告子貢曰:「越王欲身従寡人,可乎?」子貢曰:「悉人之率眾,又従其君,非義也。」吳王乃受越王卒,謝留勾践。遂自発国內之兵以伐斉,敗之。子貢遂北見晉君,令承其弊。吳晉遂遇於黄池,越王襲吳之国,吳王帰与越戦,滅焉。孔子曰:「夫其乱斉存魯,吾之始願。若能強晉以弊吳,使吳亡而越覇者,賜之説之也。美言傷信,慎言哉。」
書き下し
子貢返りて五日、越大夫文種を使わして、頓首して吳王に言わしめて曰く、「越境內の士三千人を悉くして以て吳に事えん。」吳王子貢に告げて曰く、「越王身自ら寡人に從わんと欲す、可なりや。」子貢曰く、「人の眾を率いるを悉くして、又其の君に從わしむるは、義に非ざるなり。」吳王乃ち越王の卒を受け、勾踐を留むるを謝す。遂に自ら國內の兵を發して以て齊を伐ち、之を敗る。子貢遂に北のかた晉君に見え、其の弊に承けしむ。吳・晉遂に黃池に遇い、越王吳の國を襲い、吳王歸りて越と戰い、滅ぶ。孔子曰く、「夫れ其れ齊を亂して魯を存するは、吾が始めの願いなり。若し能く晉を強くして以て吳を弊れしめ、吳をして亡びしめて越をして霸たらしむるは、賜之を說けばなり。美言は信を傷る、言を慎まんかな。」
現代語訳
子貢が呉に戻って五日後、越は大夫の文種を使者として遣わし、頭を地につけて呉王に申し上げさせた。「越は国内の兵士三千人をことごとく差し出し、呉にお仕えいたします。」呉王は子貢に告げた。「越王自身が私に従って(戦に同行)したいと申しているが、よいだろうか。」子貢は言った。「兵士をことごとく差し出させた上に、さらにその君主まで従わせるのは、道義にかなったこととは言えません。」呉王はそこで越の兵だけを受け入れ、勾践を国に留まらせることにした。こうして呉は自ら国内の兵を発して斉を討ち、これを打ち破った。子貢はそのまま北へ行き晋の君主に会見し、呉の疲弊に乗じるよう仕向けた。呉と晋はついに黄池で会盟したが、その隙に越王が呉の国を襲い、呉王は急ぎ帰国して越と戦ったが、ついに滅ぼされた。孔子は言った。「そもそも斉を混乱させ魯を存続させることが、私の当初の願いであった。もし晋を強くして呉を疲弊させ、呉を滅ぼして越を覇者にすることになったとすれば、それは子貢の弁舌がそうさせたのである。うわべを飾った言葉は誠実さを損なうこともある。言葉には慎重でありたいものだ。」
解説
この章句が説くこと
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孔子家語・致思子貢孔子に問いて曰わく、「死者は知有りや、将た知無きや。」 子曰わく、「吾死の知有るを言わんと欲すれば、将た孝子順孫の生を妨げて以て死を送らんことを恐る。吾死の知無きを言わんと欲すれば、将た不孝の子其の親を棄てて葬らざらんことを恐る。賜死者の知有ると知無きとを知らんと欲すること莫かれ。今の急に非ず、後自ら之を知らん。」
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孔子家語・致思子貢民を治むるを孔子に問う。子曰わく、「懍懍焉として腐索の馬を扞するが若し。」 子貢曰わく、「何ぞ其れ畏るるや。」 孔子曰わく、「夫れ通達禦する皆人なり。道を以て之を導けば、則ち吾が畜なり。道を以て之を導かざれば、則ち吾が讎なり。之を如何ぞ其れ畏るる無からんや。」
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荀子・大略篇子貢(しこう)孔子に問ひて曰く、「賜(し)は学に倦(う)めり、願はくは君に事(つか)ふるに息(いこ)はん」と。孔子曰く、「詩に云ふ、『温恭朝夕、事を執りて恪(かく)有り』と。君に事ふるは難し、君に事ふる焉(いづ)くんぞ息ふべけんや」と。「然らば則ち、賜は親に事ふるに息はんことを願ふ」。孔子曰く、「詩に云ふ、『孝子匱(つ)きず、永く爾(なんぢ)の類に錫(たま)ふ』と。親に事ふるは難し、親に事ふる焉くんぞ息ふべけんや」と。「然らば則ち賜は妻子に息はんことを願ふ」。孔子曰く、「詩に云ふ、『寡妻(かさい)に刑(のっと)り、兄弟に至り、以て家邦を御(をさ)む』と。妻子は難し、妻子焉くんぞ息ふべけんや」と。「然らば則ち賜は朋友に息はんことを願ふ」。孔子曰く、「詩に云ふ、『朋友攸(こ)れ攝(たす)く、攝くるに威儀を以てす』と。朋友は難し、朋友焉くんぞ息ふべけんや」と。「然らば則ち賜は耕すに息はんことを願ふ」。孔子曰く、「詩に云ふ、『昼は爾于(ここ)に茅(かや)かり、宵は爾于に綯(なは)を索(な)ふ。亟やかに其れ屋に乗り、其れ始めて百穀を播(ま)く』と。耕すは難し、耕す焉くんぞ息ふべけんや」と。「然らば則ち賜に息ふ者無きか」。孔子曰く、「其の壙(こう)を望めば、皋(こう)如たり、顛(てん)如たり、鬲(かく)如たり。此れ則ち息ふ所を知らん」と。子貢曰く、「大なるかな、死や。君子は焉(ここ)に息ひ、小人は焉に休す」と。
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史記 仲尼弟子列伝端木賜、衛人、字は子貢。孔子より少きこと三十一歳。子貢は利口巧辞なり、孔子常に其の弁を黜く。問ひて曰く、「汝と回と孰れか愈れる」と。対へて曰く、「賜や何ぞ敢て回を望まん。回や一を聞きて以て十を知り、賜や一を聞きて以て二を知る」と。子貢既に業を受け、問ひて曰く、「賜は何人ぞや」と。孔子曰く、「汝は器なり」と。曰く、「何の器ぞや」と。曰く、「瑚璉なり」と。子貢問ひて曰く、「富みて驕る無く、貧しくして諂ふ無きは、何如」と。孔子曰く、「可なり、貧しくして道を楽しみ、富みて礼を好むには如かず」と。
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論語 公冶長篇子貢曰く、『賜は何如。』子曰く、『女(なんじ)は器なり。』『何の器ぞ。』『瑚璉(これん)なり。』
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孔子家語・致思魯国の法、人の臣妾を諸侯に贖う者は、皆金を府より取る。子貢之を贖い、辞して金を取らず。 孔子之を聞きて曰わく、「賜之を失えり。夫れ聖人の事を挙ぐるや、以て風を移し俗を易う可く、教導以て百姓に施す可し、独り身に適するの行いのみに非ざるなり。今魯国富む者は寡くして貧しき者は衆し、人を贖いて金を受くれば則ち不廉と為さば、則ち何を以て相い贖わんや。今より以後、魯人復た人を諸侯に贖わじ。」