論衡 / 『論衡』遭虎篇第四十八・苛政は虎よりも猛し
孔子行魯林中、婦人哭甚哀、使子貢問之:何以哭之哀也?曰:「去年虎食吾夫、今年食吾子、是以哭哀也。」子貢曰:「若此、何不去也?」對曰:「吾善其政之不苛、吏之不暴也。」子貢還報孔子。孔子曰:「弟子識諸!苛政暴吏、甚於虎也。」
新字:孔子行魯林中、婦人哭甚哀、使子貢問之:何以哭之哀也?曰:「去年虎食吾夫、今年食吾子、是以哭哀也。」子貢曰:「若此、何不去也?」対曰:「吾善其政之不苛、吏之不暴也。」子貢還報孔子。孔子曰:「弟子識諸!苛政暴吏、甚於虎也。」
書き下し
孔子魯の林中を行くに、婦人の哭すること甚だ哀し。子貢をして之を問わしむ、何を以て哭すること之れ哀しきや、と。曰く、去年虎は吾が夫を食らい、今年は吾が子を食らう。是を以て哭すること哀しきなり、と。子貢曰く、此くの若くんば、何ぞ去らざるや、と。対えて曰く、吾は其の政の苛ならず、吏の暴ならざるを善しとすればなり、と。子貢還りて孔子に報ず。孔子曰く、弟子よ、諸を識せ。苛政と暴吏は、虎よりも甚だし、と。
現代語訳
孔子が魯の林の中を行くと、ひとりの女性がたいそう悲しげに泣いていました。子貢にわけを尋ねさせると、「去年は虎が私の夫を食い、今年は私の子を食いました。それで悲しくて泣いているのです」と言います。子貢が「そうであれば、どうしてこの土地を去らないのですか」と言うと、「ここは政治が厳しくなく、役人が乱暴でないのがありがたいからです」と答えました。子貢が戻って孔子に報告すると、孔子は言いました。「弟子たちよ、これを覚えておきなさい。苛酷な政治と乱暴な役人は、虎よりもおそろしいのだ」と。
解説
『礼記』檀弓篇にも見える有名な話で、王充は遭虎篇で、虎の害を役人の汚職の報いとみる俗説を批判する中でこれを引いています。核心は、虎の害より苛政のほうが人を追い詰めるという孔子の言葉です。夫と子を失ってもなお、そこに住み続ける理由が政治の穏やかさだったという点に重みがあります。職場に引きつけると、待遇や環境が多少悪くても人が去らない理由は、理不尽な締めつけがないことかもしれません。逆に、どれだけ待遇を整えても、上司の苛酷さが人を追い出します。管理職は、自分が部下にとっての虎になっていないかを見直す必要があります。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
苛政暴吏孔子子貢虎政治の穏やかさ
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