論衡 / 『論衡』謝短篇第三十六・古今の片方しか知らない学者
夫知古不知今、謂之陸沉、然則儒生、所謂陸沉者也。《五經》之前、至於天地始開、帝王初立者、主名為誰、儒生又不知也。夫知今不知古、謂之盲瞽。《五經》比於上古、猶為今也。徒能說經、不曉上古、然則儒生、所謂盲瞽者也。
新字:夫知古不知今、謂之陸沈、然則儒生、所謂陸沈者也。《五経》之前、至於天地始開、帝王初立者、主名為誰、儒生又不知也。夫知今不知古、謂之盲瞽。《五経》比於上古、猶為今也。徒能説経、不暁上古、然則儒生、所謂盲瞽者也。
書き下し
夫れ古を知りて今を知らざる、之を陸沈と謂う。然らば則ち儒生は、所謂陸沈なる者なり。五経の前、天地の始めて開き、帝王の初めて立つに至る者は、主名は誰為るか、儒生は又た知らざるなり。夫れ今を知りて古を知らざる、之を盲瞽と謂う。五経も上古に比ぶれば、猶お今為り。徒だ経を説くこと能くして、上古を暁らざれば、然らば則ち儒生は、所謂盲瞽なる者なり。
現代語訳
古いことを知っていて今のことを知らないのを、「陸沈」と言います。そうだとすれば儒生こそ、いわゆる陸沈の者です。五経より前、天地が開けて帝王が初めて立った時代の主が誰であったかも、儒生は知りません。今のことを知っていて古いことを知らないのを、「盲瞽」と言います。五経も太古に比べれば今にあたります。経書を説くことはできても太古のことを知らないのですから、そうだとすれば儒生こそ、いわゆる盲瞽の者です。
解説
王充は、直前で秦・漢の出来事に疎い儒生を挙げたうえで、さらに五経以前の太古も知らないと突きます。今を知らなければ陸の上で沈むようなもの、古を知らなければ目の見えない者のようなもの、という二つの言い方で、知識の偏りを批判しています。経書という一つの枠に閉じこもる学者への、手厳しい指摘です。現代の管理職に引き寄せれば、自社の過去の経緯と、いまの市場の動きの両方を見ているかという問いになります。歴史だけ、あるいは目先だけに偏っていないか、確かめる手がかりになります。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
陸沈盲瞽古今儒生偏り視野
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