論衡 / 『論衡』儒增篇第二十六・三年窺園せずは誇張
仲舒雖精、亦時解休、解休之間、猶宜游於門庭之側;則能至門庭、何嫌不窺園菜?聞用精者察物不見、存道以亡身;不聞不至門庭、坐思三年、不及窺園也。《尚書毋佚》曰"君子所其毋逸、先知稼穡之艱難、乃佚"者也。人之筋骨非木非石、不能不解。故張而不弛、文王不為;弛而不張、文王不行;一弛一張、文王以為常。聖人材優、尚有弛張之時。仲舒材力劣於聖、安能用精三年不休?
書き下し
仲舒精なりと雖も、亦た時に解休す。解休の間は、猶お宜しく門庭の側に游ぶべし。則ち能く門庭に至らば、何ぞ園菜を窺わざるを嫌わん。聞くならく、精を用うる者は物を察して見えず、道を存して以て身を亡すと。門庭に至らず、坐して三年思い、園を窺うに及ばざるを聞かず。尚書毋逸に曰く、君子は其の所に逸すること毋かれ、先ず稼穡の艱難を知りて、乃ち逸すと。人の筋骨は木に非ず石に非ず、解せざること能わず。故に張りて弛めざるは、文王為さず。弛めて張らざるは、文王行わず。一弛一張は、文王以て常と為す。聖人は材優なるも、尚お弛張の時有り。仲舒は材力聖に劣る、安んぞ能く精を用いて三年休まざらん。
現代語訳
董仲舒は、どれほど集中していても、ときには休んだはずです。休むときは、門や庭の脇を歩くくらいのことはしたでしょう。門や庭まで出たなら、野菜畑を目にしないはずがありません。精神を集中する人は、目の前の物が見えなくなったり、道を求めて身を滅ぼしたりするとは聞きます。しかし、門や庭にも出ず、座って三年間考え続け、畑をのぞくことさえしなかったとは聞いたことがありません。尚書の無逸にも、君子は安逸にとどまってはならず、まず農事の苦労を知ってから休む、とあります。人の筋骨は木でも石でもなく、緩めずにはいられません。だから、張り続けて緩めないことは文王もなさらず、緩めて張らないことも文王は行いませんでした。緩めたり張ったりを繰り返すのが、文王の常でした。聖人は才能が優れていても、緩める時がありました。董仲舒は才能が聖人に劣るのに、どうして三年間も集中して休まなかったと言えるでしょうか。
解説

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史記 儒林列伝董仲舒、広川の人なり。春秋を治むるを以て、孝景の時博士と為る。帷を下して講誦し、弟子久次を以て相ひ伝へて業を受け、或いは其の面を見る莫し、蓋し三年董仲舒舍園を観ず、其の精なること此くのごとし。進退容止、礼に非ざれば行はず、学士皆之を師尊す。
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抱朴子外篇・勖學夫れ周公は上聖にして、日に百篇を読む。仲尼は天縦にして、韋編三たび絶つ。墨翟は大賢にして、載する文は車に盈つ。仲舒は命世にして、園門を窺わず。倪寛は経を帯して以て蕓鉏し、路生は蒲を截りて以て書を写し、黄霸は桎梏を抱きて以て業を受け、寧子は夙夜に勤めて功を倍にす。故に能く道奥を究覧し、微言を窮測し、万古を観ること同日の如く、八荒を知ること廬庭の若く、七耀の盈虚を考え、三五の変化を歩み、盛衰の方に来たるを審らかにし、善否を既往に験し、玄黄を掌握に料り、未兆を甄らかにして成るが如くす。故に盛徳大業は当世に冠たり、清芒令問は罔極に播まる。
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『慎思録』巻之二天下の理は、一定にして偏なれば、則ち恒なること能はず。唯だ時に随ひて変易するは、乃ち常道なり。四時の変化して推移するが如き、是れなり。人事を以て之を言はば、譬へば遠征の人、日々行々を以て勤めと為す。然り而して昼夜休まざれば、則ち労憊して遠きに達すること能はず。故に昼往き夜休み、昼往くの中にも、亦た時有りて休めば、則ち日々行々すと雖も、然れども労憊して行くこと能はざるの患ひ無し。是れ一張一弛の道にして、恒にして究まらざる所以なり。
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『長短経』正論漢の武帝、董仲舒に問う策に曰く「蓋し倹なる者は玄黄旌旗の飾りを造らず。周室に至るに及び、両観を設け、大輅に乗り、八佾を庭に陳ねて頌声興る。夫れ帝王の道、豈に旨を異にせんや」と。対えて曰く「制度の文、采玄黄の飾りは、尊卑を明らかにし、貴賤を異にして、有徳を勧むる所以なり。故に春秋、命を受けて、先ず制する所の者は、正朔を改め、服色を易う。天に応ずる所以なり。然らば則ち宮室旌旗の制は、法有りて然る者なり。孔子曰く『奢れば則ち不孫、倹なれば則ち固』と。倹は聖人の中制に非ず。故に曰く、奢は上を倹せず、倹は下に逼らず、此れ王道なり」と。〉
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史記 儒林列伝今上位に即き、江都の相と為る。春秋の災異の変を以て陰陽の錯行する所以を推す、故に雨を求むるには諸陽を閉ぢ、諸陰を縦ち、其の雨を止むるには是に反す。之を一国に行ひ、未だ嘗て欲する所を得ずんばあらず。中ごろ廃せられて中大夫と為り、舎に居り、災異の記を著す。是の時遼東の高廟災あり、主父偃之を疾み、其の書を取りて之を天子に奏す。天子諸生を召して其の書を示す、刺譏有り。董仲舒の弟子呂歩舒其の師の書なるを知らず、以て下愚と為す。是に於て董仲舒を吏に下す、死に当たる、詔して之を赦す。是に於て董仲舒竟に敢て復た災異を言はず。董仲舒人と為り廉直なり。是の時方に外に四夷を攘ふ、公孫弘春秋を治むること董仲舒に如かず、而して弘世に希ひて事を用ひ、位公卿に至る。董仲舒弘を以て従諛と為す。弘之を疾み、乃ち上に言ひて曰く、「独り董仲舒のみ膠西王に相たらしむべし」と。膠西王素より董仲舒の行ひ有るを聞き、亦善く之を待つ。董仲舒久しくして罪を獲んことを恐れ、疾みて免じて家に居る。卒するに至るまで、終に産業を治めず、学を修め書を著すを以て事と為す。故に漢興りて五世の間に至るまで、唯だ董仲舒のみ名づけて春秋に明らかなりと為す、其の伝は公羊氏なり。胡毋生は、斉人なり。孝景の時博士と為り、老いたるを以て帰りて教授す。斉の春秋を言ふ者多く胡毋生に受く、公孫弘も亦頗る受く。瑕丘の江生穀梁春秋を為む。公孫弘用ひらるるを得てより、嘗て集めて其の義を比べ、卒に董仲舒を用ふ。仲舒の弟子の遂げし者は、蘭陵の褚大、広川の殷忠、温の呂歩舒なり。褚大は梁の相に至る。歩舒は長史に至り、節を持して使ひして淮南の獄を決し、諸侯に於いて擅に専断し、報ぜず、春秋の義を以て之を正す、天子皆以て是と為す。弟子の通ずる者、命大夫に至る、郎・謁者・掌故と為る者百を以て数ふ。而して董仲舒の子及び孫皆学を以て大官に至る。
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『潜夫論』讚學夫れ道は学に成りて書に蔵せられ、学は振うに進みて窮するに廃す。是の故に董仲舒は終身家事を問わず、景君明は経年戸庭を出でず、鋭く其の学に精しくして、其の業を顕昭するを得たるは、家富めばなり。富佚なること彼の若くにして、能く勤精なること此の若き者は、材子なり。倪寛は力を都巷に売り、匡衡は自ら保徒に鬻ぐ者は、身貧しければなり。貧阨なること彼の若くにして、能く学に進むこと此の若き者は、秀士なり。当世の学士は恒に万を以て計うるに、塗を究むる者は数十も無し。其の故は何ぞや。其の富める者は則ち賄を以て精を玷し、貧しき者は則ち乏しきを以て計を易え、或いは喪乱を以て其の年歳を朞う。此れ其の初めに逮びて功を喪い、其の童蒙に及ぶ所以の者なり。是の故に董・景の才、倪・匡の志無くして、強いて家を捐て身を出だし日を師門に曠しくせんと欲する者は、必ず幾ばくも無からん。夫れ此の四子は、耳目聡明、忠信廉勇にして、未だ必ずしも儔無きに非ざるなり。而るに其の名を成し績を立つるに及び、徳音令問已まず、然る所以有るは、夫れ何の故ぞや。徒だ其の能く自ら先聖の典経に託し、心を夫子の遺訓に結ぶを以てのみ。