論衡 / 『論衡』龍虛篇第二十二・珍しさを神秘にすり替えない
龍、魚之類也、其乘雷電猶魚之飛也。魚隨雲雨不謂之神、龍乘雷電獨謂之神。世俗之言、失其實也。物在世間、各有所乘。水蛇乘霧、龍乘雲、鳥乘風。見龍乘雲、獨謂之神、失龍之實、誣龍之能也。
新字:竜、魚之類也、其乗雷電猶魚之飛也。魚随雲雨不謂之神、竜乗雷電独謂之神。世俗之言、失其実也。物在世間、各有所乗。水蛇乗霧、竜乗雲、鳥乗風。見竜乗雲、独謂之神、失竜之実、誣竜之能也。
書き下し
龍は、魚の類なり。其の雷電に乗るは、猶お魚の飛ぶがごときなり。魚の雲雨に随うは之を神と謂わざるに、龍の雷電に乗るは独り之を神と謂う。世俗の言は、其の実を失えり。物の世間に在るや、各おの乗る所有り。水蛇は霧に乗り、龍は雲に乗り、鳥は風に乗る。龍の雲に乗るを見て、独り之を神と謂うは、龍の実を失い、龍の能を誣うるなり。
現代語訳
龍は魚の仲間です。その雷電に乗るさまは、魚が飛ぶのと同じです。魚が雲雨に従って飛んでも神とは言わないのに、龍が雷電に乗ると、龍だけを神だと言います。世俗の言うことは、実を取り違えています。物はこの世で、それぞれ乗るものがあります。水蛇は霧に乗り、龍は雲に乗り、鳥は風に乗ります。龍が雲に乗るのを見て、龍だけを神だと言うのは、龍の実のありようを見失い、龍の能力を偽って言い立てるものです。
解説
古くから、龍が雷とともに天に昇るのは天が龍を取るのだと信じられてきました。王充はこれを退け、龍は魚や蛇の仲間で、雷雲に乗るのは水蛇が霧に、鳥が風に乗るのと変わらないと言います。見慣れないものを見ると、人はすぐに特別視して神秘に祭り上げます。ここで王充は、珍しさと能力を別の話として扱っています。社内でも、成果を上げた人や不思議に見える手法を神格化すると、再現も検証もできなくなります。仕組みに分解し、何が実際に効いたのかを見極める目を養いたいものです。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
竜雷電神世俗実乗る
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