論衡 / 『論衡』骨相篇第十一・外見と言葉で人を選ぶ失敗
孔子之失子羽、唐舉惑於蔡澤、猶鄭人相孔子、不能具見形狀之實也。以貌取人、失於子羽;以言取人、失於宰予也。
新字:孔子之失子羽、唐舉惑於蔡沢、猶鄭人相孔子、不能具見形状之実也。以貌取人、失於子羽;以言取人、失於宰予也。
書き下し
孔子の子羽を失い、唐挙の蔡澤に惑うは、猶お鄭人の孔子を相て、具さに形状の実を見る能わざるがごとし。貌を以て人を取れば、子羽に失し、言を以て人を取れば、宰予に失す。
現代語訳
孔子が子羽の見立てを誤り、唐挙が蔡澤を見誤ったのは、鄭の人が孔子の姿を言い表して、形の実際を細かく見きれなかったのと同じです。外見で人を選べば子羽で失敗し、言葉で人を選べば宰予で失敗する、というわけです。
解説
王充は人相術を擁護する立場から、孔子や唐挙のような名人でも見誤ることはあると認め、見誤りは法術が浅いせいだとします。ただ最後の一文、外見で人を選べば子羽で失敗し、言葉で人を選べば宰予で失敗する、は人材選考の戒めとして今も通じます。子羽は容貌が優れないが立派な弟子、宰予は弁が立つが怠け者だったという逸話で、史記に見えます。面接や評価で、第一印象や話し方の巧みさを実力と取り違える危険を示しています。実際の行動を複数の場面で確かめて判断したいものです。

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本の中身を見るこの章句が説くこと
以貌取人以言取人子羽宰予採用人物評価
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