論語と算盤 / 仁義と富貴・能く集め能く散ぜよ
之を見た銀行の試験役はギルバルトを呼止め、今足下は室内で何かお拾ひになつたやうですが、あれは何ですかと聞くと、ギルバルトは臆する色もなく、一本の「ピン」が落ちて居たが、取り上げれば要用のもので、此儘にして置けば危険であると思つて拾ひ取りましたと答へた、是に於て試験役は大に感心して、更に色々質問して見ると、洵に思慮深い有望な青年であつたので、遂に之を任用し、後年に至りて大銀行家となつたといふことである。
書き下し
これを見た銀行の試験役はギルバルトを呼び止め、今足下は室内で何かお拾いになったようですが、あれは何ですかと聞くと、ギルバルトは臆する色もなく、一本の「ピン」が落ちていたが、取り上げれば要用のもので、このままにしておけば危険であると思って拾い取りましたと答えた。ここにおいて試験役は大いに感心して、さらに色々質問してみると、まことに思慮深い有望な青年であったので、ついにこれを任用し、後年に至りて大銀行家となったということである。
現代語訳
これを見た銀行の試験官がギルバルトを呼び止め、「今あなたは室内で何かお拾いになったようですが、あれは何ですか」と尋ねると、ギルバルトは臆する様子もなく、「一本のピンが落ちていました。拾い上げれば役に立つものですし、このままにしておけば危ないと思って拾いました」と答えた。そこで試験官は大いに感心し、さらにいろいろ質問してみると、まことに思慮深い有望な青年だったので、ついに採用した。彼は後年、大銀行家になったということである。
解説
ピンの逸話の後半である。試験官がなぜ拾ったのかと尋ねると、青年は、拾えば役に立つし、放っておけば危ないからだと答えた。この答えには二つの視点が入っている。一つは物を無駄にしないという倹約の視点、もう一つは誰かが踏んで怪我をするかもしれないという他者への配慮である。試験官が感心したのは、ピン一本の値打ちではなく、この二つが自然に身についている人柄だった。銀行は他人の金を預かる商売であり、細部への注意と他人への配慮を欠く者には務まらない。渋沢自身、第一国立銀行の総監役・頭取として長く行員を見てきた人であり、この話を引いたのも、採用で見るべきものが何かを知っていたからだろう。面接の受け答えよりも、誰も見ていないと思っている瞬間の振る舞いに、その人の本性が出る。人を採る側にも、採られる側にも通じる話である。
関連する章句
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『論語と算盤』仁義と富貴・能く集め能く散ぜよ総じて金は貴ばなければならぬ。これは単に青年ばかりに望むのではない。老人も壮者も男も女も、すべて人の貴ぶべきものである。前にも言ったごとく、貨幣は物の代表であるから、物と同じく貴ばなければならぬ。昔禹王という人は、些細な物をも粗末にしなかった。また宋の朱子は、「一食一飯まさにこれを作るの難きを思うべし、半紙半縷来処の易からざるを知れ」と言ってある。一寸の糸屑半紙の紙切れ、または一粒の米とても、決して粗末にしてはならないのである。それについてここに一つの佳話がある。英蘭銀行に有名なるギルバルトという人が、青年時代に目見えのため銀行に出頭して、その帰る時に、室内に落ちてありし一本の「ピン」を見付けて、ギルバルトはただちにこれを拾って襟にさした。
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『論語と算盤』仁義と富貴・能く集め能く散ぜよしかるに世には貴ぶということを曲解して、ただ無闇にこれを吝しむ人がある。真に注意せねばならぬことである。金に対して戒むべきは濫費であると同時に、注意すべきは吝嗇である。よく集むるを知りてよく散ずることを知らねば、その極み守銭奴となるから、今日の青年は濫費者とならざらんことを勉むると同時に、守銭奴とならぬように注意せねばならぬのである。
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『論語と算盤』仁義と富貴・能く集め能く散ぜよ要するに、金は社会の力を表彰する要具であるから、これを貴ぶのは正当であるが、必要の場合によく費消するはもちろん善いことであるが、よく集めよく散じて社会を活発にし、したがって経済界の進歩を促すのは有為の人の心懸くべきことであって、真に理財に長ずる人は、よく集むると同時によく散ずるようでなくてはならぬ。よく散ずるという意味は、正当に支出するのであって、すなわちこれを善用することである。良医が大手術を用いて患者の一命を救った「メス」も、狂人に持たしめると人を傷つける道具となる。また老母の孝養に必要なる飴も、賊徒に与うれば枢の開閉に音なきの盗具となる。ゆえに、我々は金を貴んで善用することを忘れてはならない。実に金は貴ぶべくまた賤しむべし。これをして貴ぶべきものたらしむるのは、ひとえに所有者の人格によるのである。
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『論語と算盤』立志と学問・自ら箸を取れその与えられた仕事に不平を鳴らして、いってしまう人はもちろん駄目だが、つまらぬ仕事だと軽蔑して、力を入れぬ人もまた駄目だ。およそどんな些細な仕事でも、それは大きな仕事の一小部分で、これが満足に出来なければ、ついに結末がつかぬ事になる。時計の小さい針や、小さい輪が怠けて働かなかったら、大きな針が止まらなければならぬように、何百万円の銀行でも、厘銭の計算が違うと、その日の帳尻がつかぬものだ。若いうちには気が大きくて、小さい事を見ると、何のこれしきなと軽蔑する癖があるが、それがその時限りで済むものならまだしも、後日の大問題を惹起することが無いとも限られぬ。よし後日の大問題にならぬまでも、小事を粗末にするような粗大な人では、所詮大事を成功させることは出来ない。水戸の光圀公が壁書の中に「小なることは分別せよ、大なることは驚くべからず」と認めておかれたが、ひとり商業といわず軍略といわず、何事にもこの考えでなくてはならぬ。
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『論語と算盤』人格と修養・人格の標準は如何けだし人を評して優劣を論ずることは、世間の人の好む所であるが、よくその真相を穿つの困難はこれをもって知らるるのであるから、人の真価というものは容易に判定さるべきものではない。真に人を評論せんとならば、その富貴功名に属するいわゆる成敗を第二に置き、よくその人の世に尽したる精神と効果とによってすべきものである。
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『論語と算盤』処世と信条・人物の観察法視も観もともに「ミル」と読むが、視は単に外形を肉眼によって見るだけの事で、観は外形よりもさらに立ち入ってその奥に進み、肉眼のみならず心眼を開いて見ることである。すなわち孔夫子の論語に説かれた人物観察法は、まず第一にその人の外部に顕れた行為の善悪正邪を相し、それからその人の行為は何を動機にしているものであるかをとくと観、さらに一歩を進めて、その人の安心はどこにあるか、その人は何に満足して暮らしているか等を知ることにすれば、必ずその人の真人物が明瞭になるもので、いかにその人が隠そうとしても、隠し得られるものでないというにある。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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