論語と算盤 / 成敗と運命・成敗は身に残る糟粕
兎に角人は誠実に努力黽勉して、自ら運命を開拓するが宜い、若しそれで失敗したら、自己の智力が及ばぬ為と諦め、また成功したら智恵が活用されたとして、成敗に関はらず天命に托するが可い、此くて敗れても飽くまで勉強するならば、何時かは再び好運に際会する時が来る、人生の行路は様々で、時に善人が悪人に敗けた如く見えることもあるが、長い間の善悪の差別は確然とつくものである、故に成敗に関する是非善悪を論ずるよりも、先づ誠実に努力すれば、公平無私なる天は、必ず其人に福し運命を開拓するやうに仕向けて呉れるのである。
書き下し
とにかく人は誠実に努力黽勉して、自ら運命を開拓するがよい。もしそれで失敗したら、自己の智力が及ばぬためと諦め、また成功したら智恵が活用されたとして、成敗にかかわらず天命に托するがよい。かくて敗れてもあくまで勉強するならば、いつかは再び好運に際会する時が来る。人生の行路は様々で、時に善人が悪人に負けたごとく見えることもあるが、長い間の善悪の差別は確然とつくものである。ゆえに成敗に関する是非善悪を論ずるよりも、まず誠実に努力すれば、公平無私なる天は、必ずその人に福し運命を開拓するように仕向けてくれるのである。
現代語訳
とにかく人は誠実に努め励んで、自ら運命を切り開くのがよい。もしそれで失敗したら、自分の知力が及ばなかったためだと諦め、また成功したら知恵が生かされたのだとして、成功・失敗にかかわらず天命に委ねるのがよい。こうして、敗れてもあくまで勉強を続けるならば、いつかは再び好運に巡り合うときが来る。人生の道は様々で、ときには善人が悪人に負けたように見えることもあるが、長い間には善悪の区別ははっきりとつくものである。だから、成功・失敗についての是非善悪を論じるよりも、まず誠実に努力すれば、公平無私な天は、必ずその人に福を与え、運命を切り開くように仕向けてくれるのである。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』成敗と運命・成敗は身に残る糟粕一時の成敗は長い人生、価値の多い生涯における泡沫のごときものである。しかるにこの泡沫のごときものに憧れて、目前の成敗のみを論ずる者が多いようでは、国家の発達進歩も思いやられる。よろしくそのような浮薄な考えは一掃し去りて、社会に処して実質のある生活をするがよい。いやしくも事の成敗以外に超然として立ち、道理に則って一身を終始するならば、成功失敗のごときは愚か、それ以上に価値ある生涯を送ることが出来るのである。いわんや成功は人たるの務めを完うしたるより生ずる糟粕たるにおいては、なおさら意に介するに足らぬではないか。
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『論語と算盤』成敗と運命・それ唯忠恕のみ仮に前者と後者とを対照して、そのいずれを執るかを諸氏に試問したならば、前者を執ることの最も賢く、後者を執ることの最も愚かなるを明答せらるることであろう。またよく世人が口癖のように運の善悪ということを説くが、そもそも人生の運というものは十中の一二、あるいは予定があるかも知れぬ。しかしながらたといこれが予定なりとしてみたところが、自ら努力して運なるものを開拓せねば、決してこれを把持するということは不可能である。愉快に事務を執りつつ一方に大なる災厄を招致すると、そのはじめただに天淵のみであるまい。諸氏もまた必ずその一方を捨てて他の一方を把持せられんことを熱望せらるるであろう。そうして諸氏が銘々その事業上に大なる趣味と大なる感興とを持たるると同時に、その内容の充実を期さねばならぬ。まして救済事業のごときは、その性質上注意の上にもなお一層の注意を払い、努めてその内容の豊富ならんことにおいて遺憾なきを期すべきである。
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『論語と算盤』成敗と運命・成敗は身に残る糟粕世の中には悪運が強くて成功したかのごとくに見える人がないでもない。しかし人を見るに、単に成功とかまたは失敗とかを標準とするのが根本的誤りではあるまいか。人は人たるの務めを標準として一身の行路を定めねばならぬので、いわゆる失敗とか成功とかいうものは問題外で、仮に悪運に乗じて成功したものがあろうが、善人が運拙くして失敗した者があろうが、それを見て失望したり悲観したりするには及ばないではないか。成功や失敗のごときは、ただ丹精した人の身に残る糟粕のようなものである。現代の人の多くは、ただ成功とか失敗とかいうことのみを眼中に置いて、それよりももっと大切な天地間の道理を見ていない。彼らは実質を生命とすることが出来ないで、糟粕に等しい金銭財宝を主としているのである。人はただ人たるの務めを完うすることを心掛け、自己の責務を果たし行いて、もって安んずることに心掛けねばならぬ。
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『論語と算盤』成敗と運命・人事を尽して天命を待て天命は人間がこれを意識しても、はたまた意識しなくても、四季が順当に行われて行くように、百事百物の間に行われてゆくものたるを覚り、これに対する恭、敬、信をもってせねばならぬものだ、と信じさえすれば、「人事を尽して天命を待つ」なる語のうちに含まるる真正の意義も、初めて完全に解し得られるようになるものかと思う。されば実際世に処して行く上において、いかに天を解してゆくべきものかという問題になれば、孔夫子の解しておられた程度にこれを解して、人格ある霊的動物なりともせず、天地と社会との間に行われる因果応報の理法を偶然の出来事なりともせず、これを天命なりとして恭、敬、信の念をもって対するのが、最も穏当なる考え方であろうかと思うのである。
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『論語と算盤』処世と信条・大丈夫の試金石もし何人でも自然的逆境に立った場合には、第一にその場合に自己の本分であると覚悟するのが唯一の策であろうと思う。足るを知りて分を守り、これはいかに焦慮すればとて、天命であるから仕方がないとあきらめるならば、いかに処し難き逆境に居ても、心は平らかなるを得るに相違ない。しかるにもしこの場合をすべて人為的に解釈し、人間の力でどうにかなるものであると考えるならば、いたずらに苦労の種を増すばかりか、労して功のない結果となり、ついには逆境に疲れさせられて、後日の策を講ずることも出来なくなってしまうであろう。ゆえに自然的の逆境に処するに当たっては、まず天命に安んじ、おもむろに来るべき運命を待ちつつ、たわまず屈せず勉強するがよい。
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『論語と算盤』成敗と運命・人事を尽して天命を待てこれが天命であるかあれが天命であるとか言うのは、畢竟人間が自分でそれぞれ勝手に極めることであって、天の毫も関知する所ではないのである。ゆえに人間が天命を畏れて、人力のいかんともする能わざる、ある大なる力の存在を認め、人力を尽くしさえすれば、無理なことでも不自然なことでも、何でも必ず貫徹するものと思わず、恭、敬、信をもって天に対し、明治天皇の教育勅語のうちに、いわゆる古今に通じて謬らず、中外に施して悖らぬ、坦々として長安に通ずる大道をのみ歩み、人力に勝ち誇って無理をしたり、不自然の行為をしたりするのを慎むということは、誠に結構の至りであるが、天あるいは神あるいは仏を人格人体あり、感情に左右せらるるものであるかのごとくに解釈するのは、甚だ間違った観念であろうかと思うのである。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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