論語と算盤 / 成敗と運命・湖畔の感慨
大正三年の春、支那旅行の途上、上海に着いたのは五月六日であつたが、其の翌日は鉄道で杭州に行つた、杭州には西湖といふ有名な景勝の湖水があり、其の辺りに岳飛の石碑がある、その碑から四五間程離れた処に、当時の権臣秦檜の鉄像があつて相対して居る、岳飛は宋末の名将で、当時宋と金との間には屢〻戦があつて、金の為に宋は燕京を略取せられ、南宋と称して南方に偏在した、岳飛は朝命を奉じて出征し、金の大軍を破つて、将に燕京を恢復しやうとしたのであるが、奸臣秦檜は金の賄賂を納れて岳飛を召還した、岳飛は其の奸を知つて、臣が十年の功一日にして廃る、臣職に称はざるにあらず、実に秦檜、君を誤るなりと言つたが、彼は遂に讒によりて殺された、斯の誠忠なる岳飛と奸佞なる秦檜とは、今数歩を隔て〻相対して居るのだ、如何にも皮肉ではあるが、対象また妙である、今日岳飛の碑を覧に行つた人々は、殆んど慣例のやうに岳飛の碑に対つて涙を濺ぐと共に、秦檜の像に放尿して帰るとのことである、死後に於て忠奸判然たるは実に痛快である。今日支那人中にも岳飛のやうな人もあらう、又秦檜に似たる人がないとも言はれぬけれども、
新字:大正三年の春、支那旅行の途上、上海に着いたのは五月六日であつたが、其の翌日は鉄道で杭州に行つた、杭州には西湖といふ有名な景勝の湖水があり、其の辺りに岳飛の石碑がある、その碑から四五間程離れた処に、当時の権臣秦檜の鉄像があつて相対して居る、岳飛は宋末の名将で、当時宋と金との間には屡〻戦があつて、金の為に宋は燕京を略取せられ、南宋と称して南方に偏在した、岳飛は朝命を奉じて出征し、金の大軍を破つて、将に燕京を恢復しやうとしたのであるが、奸臣秦檜は金の賄賂を納れて岳飛を召還した、岳飛は其の奸を知つて、臣が十年の功一日にして廃る、臣職に称はざるにあらず、実に秦檜、君を誤るなりと言つたが、彼は遂に讒によりて殺された、斯の誠忠なる岳飛と奸佞なる秦檜とは、今数歩を隔て〻相対して居るのだ、如何にも皮肉ではあるが、対象また妙である、今日岳飛の碑を覧に行つた人々は、殆んど慣例のやうに岳飛の碑に対つて涙を濺ぐと共に、秦檜の像に放尿して帰るとのことである、死後に於て忠奸判然たるは実に痛快である。今日支那人中にも岳飛のやうな人もあらう、又秦檜に似たる人がないとも言はれぬけれども、
書き下し
大正三年の春、支那旅行の途上、上海に着いたのは五月六日であったが、その翌日は鉄道で杭州に行った。杭州には西湖という有名な景勝の湖水があり、その辺りに岳飛の石碑がある。その碑から四五間ほど離れた処に、当時の権臣秦檜の鉄像があって相対している。岳飛は宋末の名将で、当時宋と金との間にはしばしば戦があって、金のために宋は燕京を略取せられ、南宋と称して南方に偏在した。岳飛は朝命を奉じて出征し、金の大軍を破って、まさに燕京を恢復しようとしたのであるが、奸臣秦檜は金の賄賂を納れて岳飛を召還した。岳飛はその奸を知って、臣が十年の功一日にして廃る、臣職にかなわざるにあらず、実に秦檜、君を誤るなりと言ったが、彼はついに讒によりて殺された。この誠忠なる岳飛と奸佞なる秦檜とは、今数歩を隔てて相対しているのだ。いかにも皮肉ではあるが、対象また妙である。今日岳飛の碑を覧に行った人々は、ほとんど慣例のように岳飛の碑に向かって涙を濺ぐと共に、秦檜の像に放尿して帰るとのことである。死後において忠奸判然たるは実に痛快である。今日支那人中にも岳飛のような人もあろう、また秦檜に似たる人がないとも言われぬけれども。
現代語訳
大正三年の春、中国旅行の途中で上海に着いたのは五月六日であったが、その翌日は鉄道で杭州へ行った。杭州には西湖という有名な景勝の湖があり、そのほとりに岳飛の石碑がある。その碑から四、五間(七、八メートル)ほど離れたところに、当時の権臣であった秦檜の鉄像があって、向かい合っている。岳飛は宋の末(実際は南宋の初め)の名将で、当時、宋と金との間ではたびたび戦があり、宋は金に燕京を奪われて、南宋と称して南方に偏って存続した。岳飛は朝廷の命を受けて出征し、金の大軍を破って、まさに燕京を回復しようとしたのであるが、奸臣の秦檜は金の賄賂を受け入れて岳飛を呼び戻した。岳飛はその悪だくみを知って、「臣の十年の功が一日にして廃れる。臣が職にふさわしくないのではない、まことに秦檜が君主を誤らせているのだ」と言ったが、ついに讒言によって殺された。この誠忠な岳飛と、奸佞な秦檜とが、今は数歩を隔てて向かい合っているのだ。いかにも皮肉ではあるが、その対照もまた妙である。今日、岳飛の碑を見に行った人々は、ほとんど慣例のように岳飛の碑に向かって涙を注ぐとともに、秦檜の像に小便をかけて帰るということである。死後において忠と奸がはっきり分かれるのは実に痛快である。今日の中国人の中にも岳飛のような人もいるだろうし、また秦檜に似た人がいないとも言えないけれども。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』成敗と運命・湖畔の感慨岳飛の碑を拝して秦檜の像に放尿するというのは、これ実に孟子のいわゆる「人性は善なり」に因るのではあるまいか。天に通ずる赤誠は、深く人心に沁み込んで、千載の下なおその徳を慕わしむるのである。これをもっても人の成敗というものは、棺を蓋うた後でなければ得て知ることが出来ない。我が国における楠正成と足利尊氏も、菅原道真と藤原時平も、皆しかりと言うべきである。この碑を覧るに及んで感慨ことに深きを覚えた。
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『慎思録』巻之六岳武穆は千古の忠臣なり。姦凶の陥るる所と為りて、忠誠を行ふこと能はず、終に獄中に枉殺せらる。千歳の悲歎すべき所なり。或ひと曰く、此れ明哲保身の道に非ずと。古人も亦此の説を做す者有り。愚謂へらく、忠臣孝子は、君父を愛するの至り、国家の危きを見て、命を授くるの道、宜しく此くの如くすべし。其の軀を喪ふと雖も、顧みざる所以なり。而して明哲保身なる者は、復た各時有りて宜しき所なり。一概にして論ずべからざるなり。
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『慎思録』巻之五忠臣孝子の君父に於けるは、譬へば手足の面目を捍ぐが如く然り。毀折に遭ふと雖も懼れず。其の愛する所至りて深きなり。君子の人を愛するや、物我を忘る。故に其の危難の時に方りては、疎遠なりと雖も、救はざること能はず。况や其の至尊至親の者に於てをや。岳武穆の如き、其の君を愛し国を憂ふるの志至りて深く、終に奪ふべからざる者有り。是を以て利害死生を顧みず、讒人の枉陥して死に至ると雖も、其の節操を変ぜず。或るひと謂ふ、此れ明哲保身の道に非ず、進退の機に昧し、と。是れ豈に忠臣義士の心を知る者ならんや。
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『慎思録』巻之五孔明・岳飛・文天祥の輩、王佐の才、恢復の力無きに非ず。然れども身将相と為りて、其の功を立つること能はず。命に非ずや。然らば則ち人の賢否は、事功の成敗を以て論ずべからざること久し。功の成否は、唯命の禍福に由るのみ。賢不肖に由るに非ざるなり。
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『慎思録』巻之六聖賢と残賊と、其の人既に没すと雖も、善悪の芳穢、千載に流れて休まず。人の一身は、豈に生前百年血肉の躯に止まらんや。抑々身後千歳毀誉する所の美悪も、亦是れ其の身分内の事と為すべし。然らば則ち何ぞ聖愚同じく腐りて余り無しと謂はんや。古人の詩に曰く、秦檜の悪名は千古臭く、岳王の忠節は万年芳しと。謝枋得の詩に云ふ、人生の芳穢は千歳有り、世上の栄枯は百年無しと。此れ皆身後の汚名の恥づべきを言ふなり。若し身後の汚名を恥ぢずんば、則ち大節に臨みて苟免し、生を偸み義に背き、何の至らざることか之有らん。此くの如くにして身を没する者は、禽獣と何ぞ異ならんや。古人の詩に曰く、孔丘も盗跖も倶に塵埃と。是れ豈に名教に害有るの言に非ずや。
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『論語と算盤』成敗と運命・失敗らしき成功支那という国の民族気質には一種妙な所があって、英雄豪傑の墳墓などは粗末にしておいて、毫も怪しまず平然たり得る傾向がある。しかし友人にして支那の事情に通ぜらるる白岩君に面会して親しく聞いた所や、また白岩君が「心の花」に寄せられた紀行などを読んでも明らかに知られるように、曲阜にある孔夫子の廟ばかりは、さすがの支那人もこれをすこぶる鄭重に保存して、善美壮厳を極め、夫子の後裔も今なお現存して、一般より非常なる尊敬を受けているとのことである。しからば孔夫子が生前において堯舜禹湯文武周公のごとき政治上に見るべき功績を挙げて、高き位に居るまでに至らず、その富も天下をたもつというまでになれずに、今の言葉でいう成功をしなかった事は、決して失敗でないのである。これがかえって真の成功と言うべきものである。
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