論語と算盤 / 教育と情誼・人物過剰の一大原因
従つて之に要する人物にも色々の種類が必要で、高ければ一会社の社長たる人物、卑くければ使丁たり車夫たる人物も必要である、人を使役する側の人は少数なのに反し、人に使役される人は無限の需要がある、左れば学生が此の需要多き、人に使役さる〻側の人物たらんと志しさへすれば、今日の社会と雖も未だ人物に過剰を生ずるやうな事はあるまいと考へる、
書き下し
従ってこれに要する人物にも色々の種類が必要で、高ければ一会社の社長たる人物、ひくければ使丁たり車夫たる人物も必要である。人を使役する側の人は少数なのに反し、人に使役される人は無限の需要がある。されば学生がこの需要多き、人に使役さるる側の人物たらんと志しさえすれば、今日の社会といえどもいまだ人物に過剰を生ずるような事はあるまいと考える。
現代語訳
したがって社会が必要とする人物にもいろいろな種類があって、上は一会社の社長となる人物から、下は用務員や車夫となる人物まで必要である。人を使う側の人は少数であるのに対し、人に使われる人には限りない需要がある。だから学生が、この需要の多い、人に使われる側の人物になろうと志しさえすれば、今日の社会であっても、まだ人物の過剰が生じるようなことはあるまいと考える。
解説
渋沢は社会が求める人物を、上は会社の社長から下は使丁や車夫までと並べ、人を使う側は少数で、使われる側には無限の需要があると言う。「使丁」は役所や会社の雑用係のことで、職業に上下をつける言い方には当時の身分感覚がそのまま出ている。ただ渋沢の力点は、職業に貴賤をつけることではなく、需要のある場所に志を向けよという点にある。自身、農家に生まれて藍の商いを手伝い、幕臣、大蔵官僚、銀行家と立場を替えてきた人で、どの持ち場にも固有の意味があることを知っていた。高い地位を目指すこと自体は否定しないが、社会が実際に必要としている仕事から目を背ければ、個人も社会も行き詰まる。人気が一部の業種や職種に集中し、現場を担う人手が足りなくなる構図は、今日の労働市場にもそのまま見られる。
関連する章句
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『論語と算盤』教育と情誼・人物過剰の一大原因しかるに今日の学生の一般は、その少数しか必要とされない、人を使役する側の人物たらんと志している。つまり学問して高尚な理窟を知って来たから、馬鹿らしくて人の下などに使われることは出来ないようになってしまっている。同時に教育の方針もまた若干その意義を取り違え、無闇に詰込主義の智識教育で能事足れりとするから、同一類型の人物ばかり出来上がり、精神修養を閑却した悲しさには、人に屈するということを知らぬので、いたずらに気位ばかり高くなって行くのだ。
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『論語と算盤』教育と情誼・人物過剰の一大原因経済界に需要供給の原則があるごとく、実社会に投じて活動しつつある人間にも、またこの原則が応用されるようである。言うまでもなく、社会における事業には一定の範囲があって、使うだけの人物を雇い入れると、それ以上は不必要になる。しかるに一方人物は年々歳々たくさんの学校で養成するから、いまだ完全に発達せぬ我が実業界には、とてもそれらの人々を満足させるように使い切ることは不可能である。ことに今日の時代は高等教育を受けた人物の供給が過多になっている傾きが見える。学生は一般に高等の教育を受けて、高尚の事業に従事したいとの希望を持ってかかるから、たちまちそこに供給過多を生じなければやまぬことになってしまう。学生がかくのごとき希望を懐くのは、個人としてはもちろん嘉すべき心掛けであるが、これを一般社会から観、あるいは国家的に打算したらいかがであろうか。余は必ずしも喜ぶべき現象として迎えることは出来ないように思われる。要するに、社会は千篇一律のものではない。
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『論語と算盤』教育と情誼・人物過剰の一大原因しかるに今日では教育の方法は極めてよいが、その精神を穿き違えているために、学生は自己の才不才、適不適をも弁えず、彼も人なり我も人なり、彼と同一の教育を受けた以上、彼のやるくらいのことは自分にもやれるとの自負心を起こし、自ら卑しい仕事に甘んずる者が少ないという傾向である。これ昔の教育が百人中一人の秀才を出したに反し、今日は九十九人の普通的人物を造るという教育法の長所ではあるが、遺憾ながらその精神を誤ったので、ついに現在のごとく中流以上の人物の供給過剰を見るの結果をもたらしたのである。しかし同じ教育の方針を執りつつある、欧米先進国の有様を見るに、教育によってかかる弊害を生ずることは少ないように思う。ことに英国のごときは我が国における現時の状態とは大いに違うて、十分なる常識の発達に意を用い、人格ある人物を造るという点に注意しているように見える。もとより教育のことに関してその多くを知らぬ余のごとき者の容易に容喙さるべき問題ではないが、大体から観て今日のような結果を得る教育は、あまり完全なるものであるとは言われまいと思う。
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『論語と算盤』教育と情誼・現代教育の得失ゆえに一般の青年は、自己の資力に応じて小学校を卒業すると、それぞれの専門教育に投じて実際的技術を修むべきである。また高等の教育を受くる者も、なお中学時代において、将来はいかなる専門学科を修むべきかという、確然たる目的を定むることが必要である。浅薄なる虚栄心のために修学の法を誤らば、これ実に青年の一身を誤るのみならず、国家元気の衰退を招く基となるのである。
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『論語と算盤』教育と情誼・人物過剰の一大原因かくのごとくんば人物の供給過剰もむしろ当然のことではあるまいか。今更、寺小屋時代の教育を例に引いて論ずる訳ではないが、人物養成の点は不完全ながらも昔の方がうまくいっていた。今日に比較すれば教育の方法などは極めて簡単なもので、教科書と言ったところで、高尚なのが四書五経に八大家文くらいが関の山であったが、それによって養成された人物は、決して同一類型の人物ばかりではなかった。それはもちろん教育の方針が全然異なっていたからではあろうけれども、学生はおのおのその長ずる所に向かって進み、十人十色の人物となって現れたのであった。例えば、秀才はどんどん上達して高尚な仕事に向かったが、愚鈍の者は非望を懐かずに下賤の仕事に安んじて行くという風であったから、人物の応用に困るというような心配は少なかった。
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『論語と算盤』立志と学問・社会と学問との関係元来人情の通弊として、とかくに功を急ぎ大局を忘れて、勢い事物に拘泥し、わずかな成功に満足するかと思えば、さほどでもない失敗に落胆する者が多い。学校卒業生が社会の実務を軽視し、実際上の問題を誤解するのも、多くはこのためである。ぜひともこの誤れる考えは改めねばならぬが、その参考として学問と社会との関係を考察すべき例を挙げると。
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