論語と算盤 / 教育と情誼・人物過剰の一大原因
然るに今日の学生の一般は、其の少数しか必要とされない、人を使役する側の人物たらんと志して居る、つまり学問して高尚な理窟を知つて来たから、馬鹿らしくて人の下なぞに使はれることは出来ないやうになつて仕舞つて居る、同時に教育の方針も亦若干その意義を取り違へ、無暗に詰込主義の智識教育で能事足れりとするから、同一類型の人物ばかり出来上り、精神修養を閑却した悲しさには、人に屈するといふことを知らぬので、徒らに気位ばかり高くなつて行くのだ
書き下し
しかるに今日の学生の一般は、その少数しか必要とされない、人を使役する側の人物たらんと志している。つまり学問して高尚な理窟を知って来たから、馬鹿らしくて人の下などに使われることは出来ないようになってしまっている。同時に教育の方針もまた若干その意義を取り違え、無闇に詰込主義の智識教育で能事足れりとするから、同一類型の人物ばかり出来上がり、精神修養を閑却した悲しさには、人に屈するということを知らぬので、いたずらに気位ばかり高くなって行くのだ。
現代語訳
ところが今の学生の多くは、ごく少数しか必要とされない「人を使う側」の人物になろうと志している。つまり学問をして高尚な理屈を知ったので、馬鹿らしくて人の下に使われることができなくなってしまっているのだ。同時に教育の方針もいくらか意義を取り違え、やみくもな詰め込みの知識教育でこと足れりとするから、同じ型の人物ばかりができ上がる。精神の修養をおろそかにした悲しさで、人に屈するということを知らず、ただ気位ばかりが高くなっていくのである。
解説
高等教育を受けた人材が余る——渋沢はその原因を人数ではなく志望の偏りに見た。社会が必要とするのは、使う側が少数、使われる側が無限である。ところが学生はみな少数の側を目指す。だから過剰が生まれる。教育の側にも原因を求める。詰め込みの知識教育は同じ型の人物ばかりを作り、精神修養を欠くために「人に屈するといふことを知らぬ」まま気位だけが高くなる、と。彼は寺子屋時代を美化しているわけではない。方法は今のほうがよい、ただ精神を取り違えていると言う。昔は秀才が一人出て、他は自分の器に安んじた。九十九人の普通の人を育てる教育の長所を、活かしきれていないという批判である。
この章句が説くこと
人物過剰使役する側と使役される側詰込主義同一類型の人物