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論語と算盤 / 教育と情誼・孝らしからぬ孝

近江の孝子は一礼の後、信濃の孝子に委細来意を告げて、孝行修行の為に来れる一部始終を物語り、彼是れ話し込むうち早や夕飯の時刻にもなつたので、信濃の孝子は晩餐の支度をして客人に出すやうにと老母に頼んだ様子であつたが、愈〻膳が出るまで、信濃の孝子は別に母の手伝をしてやる模様もなく、膳が出てからも平然として母に給仕させるのみか、やれ御汁が鹹くて困るとか、御飯の加減が何うであるとか、と老母に小言ばかりを言ふ、そこで近江の孝子も遂に見かねて、『私は貴公が天下に名高い孝子だと承つて、はる〴〵近江より孝行修行の為め罷り出たものであるが、先刻よりの様子を窺ふに、実に以て意外千万の事ばかり、毫も御老母を労はらる〻模様のなきのみか、剰へ老母を𠮟らせらる〻とは何事ぞ、貴公の如きは孝子どころか、不孝の甚しきものであらうぞ』と励声一番、開き直つて詰責に及んだのである、之に対する信濃の孝子の答弁がまた至極面白い。

書き下し

近江の孝子は一礼の後、信濃の孝子に委細来意を告げて、孝行修行のために来たれる一部始終を物語り、かれこれ話し込むうち早や夕飯の時刻にもなったので、信濃の孝子は晩餐の支度をして客人に出すようにと老母に頼んだ様子であったが、いよいよ膳が出るまで、信濃の孝子は別に母の手伝いをしてやる模様もなく、膳が出てからも平然として母に給仕させるのみか、やれお汁が辛くて困るとか、ご飯の加減がどうであるとか、と老母に小言ばかりを言う。そこで近江の孝子もついに見かねて、「私は貴公が天下に名高い孝子だと承って、はるばる近江より孝行修行のため罷り出たものであるが、先刻よりの様子を窺うに、実にもって意外千万の事ばかり、毫もご老母を労わらるる模様のなきのみか、あまつさえ老母を叱らせらるるとは何事ぞ、貴公のごときは孝子どころか、不孝の甚だしきものであろうぞ」と励声一番、開き直って詰責に及んだのである。これに対する信濃の孝子の答弁がまた至極面白い。

現代語訳

近江の孝子は一礼したのち、信濃の孝子に訪ねてきた用向きをくわしく告げ、孝行修行のために来た一部始終を語った。あれこれ話し込むうちに、はや夕飯の時刻にもなったので、信濃の孝子は晩の食事を用意して客人に出すようにと老母に頼んだ様子であった。ところが、いよいよ膳が出るまで、信濃の孝子は別に母の手伝いをしてやる様子もなく、膳が出てからも平然として母に給仕させるばかりか、やれ汁が塩辛くて困るだの、飯の炊き加減がどうだのと、老母に小言ばかり言う。そこで近江の孝子もとうとう見かねて、「私はあなたが天下に名高い孝子だとうかがって、はるばる近江から孝行修行のために参った者であるが、先ほどからの様子を拝見すると、実に意外千万なことばかりで、少しもご老母をいたわる様子がないばかりか、そのうえ老母を叱られるとは何事か。あなたなどは孝子どころか、ひどい親不孝者であろう」と声を励まして一喝し、開き直って問い詰めたのである。これに対する信濃の孝子の答えがまた、至極面白い。

解説

近江の孝子の我慢はついに切れる。汁が塩辛い、飯の加減がどうだと老母に小言を言う相手に、「孝子どころか、不孝の甚しきもの」と面と向かって詰め寄る。この詰責は正論である。はるばる教えを乞いに来た者が、目の前の振る舞いを見て黙っていられないのは当然で、読み手の多くも同じ気持ちになる。道話はここで近江の孝子を愚か者として描いていない。彼の怒りは孝への真剣さから出たもので、だからこそ次に示される答えが、彼にとっても読み手にとっても深い転回になる。信濃の孝子は、母の親切を無にしないためにあえて頼み、あえて小言を言うのだと答える。正しさを振りかざす前に相手の事情を聞くこと、そして聞いた答えに素直に心を開くこと。議論で相手を詰める場面の多い立場の人ほど、この場面の近江の孝子から学ぶものは多い。

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