論語と算盤 / 教育と情誼・孝らしからぬ孝
孝行々々と、如何にも孝行は百行の基たるに相違ないが、孝行をしやうとしての孝行は真実の孝行とは言はれぬ、孝行ならぬ孝行が真実の孝行である、私が年老いたる母に種々と頼んで、足を揉ませたりするまでに致し、御汁や御飯の小言を曰つたりするのも、母は子息が山仕事から帰つて来るのを見れば、定めし疲れてることだらうと思ひ、『さぞ疲れたらう』と親切に優しくして下さるので、その親切を無にせぬやうにと、足を伸して揉んで貰ひ、また客人を饗応すに就ては、定めし不行届で息子が不満足だらうと思うて下さるものと察するから、その親切を無にせぬ為め、御飯や御汁の小言までも曰うたりするのである
書き下し
孝行孝行と、いかにも孝行は百行の基たるに相違ないが、孝行をしようとしての孝行は真実の孝行とは言われぬ。孝行ならぬ孝行が真実の孝行である。私が年老いたる母に種々と頼んで、足を揉ませたりするまでに致し、お汁やご飯の小言を言ったりするのも、母は息子が山仕事から帰って来るのを見れば、さぞ疲れていることだろうと思い、「さぞ疲れたろう」と親切に優しくして下さるので、その親切を無にせぬようにと、足を伸ばして揉んでもらい、また客人をもてなすについては、さぞ不行き届きで息子が不満足だろうと思って下さるものと察するから、その親切を無にせぬため、ご飯やお汁の小言までも言ったりするのである。
現代語訳
孝行孝行と言うが、たしかに孝行は百行の基に違いない。しかし孝行をしようとしてする孝行は、本当の孝行とは言えない。孝行らしくない孝行こそが本当の孝行である。私が年老いた母にあれこれ頼んで足を揉ませたり、汁や飯に小言を言ったりするのも理由がある。母は息子が山仕事から帰るのを見れば、さぞ疲れているだろうと思い、優しくしてくださる。その親切を無にしないように、足を伸ばして揉んでもらうのだ。客をもてなすときも、行き届かなくて息子が不満だろうと母は思ってくださる。その親切を無にしないために、飯や汁の小言まで言うのである。
解説
石田梅巌に始まる心学の書『道二翁道話』から、渋沢が引いた寓話である。孝行の名高い近江の孝子が、信濃の孝子を訪ねる。ところが信濃の孝子は、老母に薪を下ろさせ、足を洗わせ、揉ませ、食事に小言まで言う。近江の孝子が咎めると、返ってきたのがこの答えだった。母は世話を焼きたいのだ、その親切を無にしないために、あえて頼み、あえて小言を言う——尽くすことではなく、相手の役割を残すことを孝と呼んでいる。近江の孝子はここで悟る。孝行のために孝行を努めていた自分には、まだ至らないところがあった、と。善意が相手から出番を奪うことがある、という点でこの寓話は職場にも効く。
この章句が説くこと
孝らしからぬ孝道二翁道話心学相手の親切を無にせぬ