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論語と算盤 / 教育と情誼・孝らしからぬ孝

漸々にして孝子の家を尋ね当て、其家の敷居を跨いだのは、正午過であつたが、家の中には唯一人の老母が在るだけで、実に寂しいものである、『御子息は』と尋ねると、『山へ仕事に行つてるから』とのことに、近江の孝子は委細来意を留守居の老母まで申し述べると、『夕刻には必ず帰らうから、兎に角上つて御待ち下さるやうに』と勧められたので、遠慮なく座敷に上つて待つてると、果して夕暮方に至れば信濃の孝子だと評判の高い子息殿が、山で採つた薪を一杯背負つて帰つて来られた、そこで近江の孝子は、此所ぞ参考のために大に見て置くべき所だらうと心得て、奥の室から様子を窺つて居ると、信濃の孝子は、薪を背負つたま〻で縁に瞠乎と腰を掛け、荷物が重くて仕様がないから、手伝つて卸して呉れろと、老母に手伝はして居る模様である、近江の孝子は先づ意外の感に打たれて、猶ほ窺つてるとも知らず、今度は足が泥で汚れてるから浄水を持つて来て呉れの、やア足を拭うて呉れのと、様々な勝手な注文ばかりを老母にする、

書き下し

ようようにして孝子の家を尋ね当て、その家の敷居をまたいだのは、正午過ぎであったが、家の中にはただ一人の老母がいるだけで、実に寂しいものである。「御子息は」と尋ねると、「山へ仕事に行ってるから」とのことに、近江の孝子は委細来意を留守居の老母まで申し述べると、「夕刻には必ず帰ろうから、とにかく上がってお待ち下さるように」と勧められたので、遠慮なく座敷に上がって待ってると、果たして夕暮れ方に至れば信濃の孝子だと評判の高い子息殿が、山で採った薪をいっぱい背負って帰って来られた。そこで近江の孝子は、ここぞ参考のために大いに見ておくべき所だろうと心得て、奥の室から様子を窺っていると、信濃の孝子は、薪を背負ったままで縁にどっかと腰を掛け、荷物が重くて仕様がないから、手伝って下ろしてくれろと、老母に手伝わしている模様である。近江の孝子はまず意外の感に打たれて、なお窺ってるとも知らず、今度は足が泥で汚れてるから浄水を持って来てくれの、やあ足を拭うてくれのと、様々な勝手な注文ばかりを老母にする。

現代語訳

ようやく孝子の家を探し当て、その家の敷居をまたいだのは昼過ぎであったが、家の中には老母がただ一人いるだけで、実に寂しいものであった。「ご子息は」と尋ねると、「山へ仕事に行っている」とのことなので、近江の孝子は訪ねてきた用向きを留守番の老母にくわしく申し述べた。すると「夕方には必ず帰るでしょうから、とにかく上がってお待ちください」と勧められたので、遠慮なく座敷に上がって待っていた。はたして夕暮れ時になると、信濃の孝子だと評判の高いご子息が、山で採った薪をいっぱい背負って帰ってこられた。そこで近江の孝子は、ここは参考のために大いに見ておくべきところだと心得て、奥の部屋から様子をうかがっていた。すると信濃の孝子は、薪を背負ったまま縁側にどっかと腰を掛け、荷物が重くてしかたがないから手伝って下ろしてくれと、老母に手伝わせている様子である。近江の孝子はまず意外に思ったが、見られているとも知らず、信濃の孝子は今度は、足が泥で汚れているからきれいな水を持ってきてくれだの、やあ足を拭いてくれだのと、あれこれ勝手な注文ばかりを老母にするのである。

解説

話はここで意外な方へ転がる。評判の孝子は、帰るなり老母に薪を下ろさせ、水を運ばせ、足まで拭かせる。孝行の手本を見に来た近江の孝子にとっては、目を疑う光景である。渋沢の語り口もここは道話らしく生き生きとしていて、「瞠乎と腰を掛け」「やア足を拭うて呉れの」と、場面が目に浮かぶように書かれている。道話は教訓を先に掲げず、まず聞き手を驚かせ、疑わせ、そのうえで答えを示す。心学の講釈が庶民に広く受け入れられた理由の一つがこの語り方である。読み手もここで、近江の孝子と同じく「これのどこが孝行か」と思わされる。見た目の振る舞いだけで人を判断しない、という教えは、答えを聞く前のこの戸惑いがあってこそ深く刺さる。部下や同僚の一見不可解な行動に出会ったときも、まず背後の理由を問う姿勢が要る。

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