論語と算盤 / 実業と士道・此の如き誤解あり
由来競争は何物にも伴ふもので、その最も激烈を極むるものは競馬とか競漕とかいふ場合である、其の他朝起るにも競争がある、読書するにも競争がある、また徳の高い人が徳の低い人から尊重されるにも、それ〴〵競争がある、けれども是等後の方のものに於ては、余り激烈なものは認めない、然るに競馬競漕となると、命を懸けても構はないといふ程になる、自己の財産を増すに就ても是と同様で、激烈なる競争の念を起し、彼よりも我に財産の多からんことを欲する、其極、道義の観念も打忘れて、謂ゆる目的の為には手段を択ばぬといふやうにもなる、即ち同僚を誤り、他人を毀ち、或は大に自己を腐敗する、古語に『富をなせば仁ならず』といふのも、畢竟さういふ所から出た言葉であらう、アリストートルは『総ての商売は罪悪なり』と言つて居るさうであるが、それは未だ人文の開けぬ時代のことで、如何に大哲学者の申分とあつても、真面目には受取れない、併し孟子も『富をなせば仁ならず、仁をなせば富まず』と言つて居るから、等しく味はふべき言葉である。
書き下し
由来競争は何物にも伴うもので、その最も激烈を極むるものは競馬とか競漕とかいう場合である。その他朝起きるにも競争がある。読書するにも競争がある。また徳の高い人が徳の低い人から尊重されるにも、それぞれ競争がある。けれどもこれら後の方のものにおいては、あまり激烈なものは認めない。しかるに競馬競漕となると、命を懸けても構わないというほどになる。自己の財産を増すについてもこれと同様で、激烈なる競争の念を起こし、彼よりも我に財産の多からんことを欲する。その極、道義の観念も打ち忘れて、いわゆる目的のためには手段を択ばぬというようにもなる。すなわち同僚を誤り、他人を毀ち、あるいは大いに自己を腐敗する。古語に「富をなせば仁ならず」というのも、畢竟そういう所から出た言葉であろう。アリストートルは「すべての商売は罪悪なり」と言っているそうであるが、それはいまだ人文の開けぬ時代のことで、いかに大哲学者の申し分とあっても、真面目には受け取れない。しかし孟子も「富をなせば仁ならず、仁をなせば富まず」と言っているから、等しく味わうべき言葉である。
現代語訳
もともと競争は何事にもつきものであって、それが最も激しくなるのは、競馬とか競漕(ボートレース)とかいった場合である。そのほか朝起きるのにも競争があり、読書するのにも競争がある。また徳の高い人が徳の低い人から尊重されるのにも、それぞれ競争がある。けれどもこうした後のほうのものについては、あまり激しいものは見られない。ところが競馬や競漕となると、命を懸けても構わないというほどになる。自分の財産を増やすことについてもこれと同じで、激しい競争心を起こし、あの人よりも自分の財産が多くあってほしいと望む。その果てには道義の観念も忘れて、いわゆる目的のためには手段を選ばないというふうにもなる。つまり同僚を誤らせ、他人を傷つけ、あるいは自分自身をひどく腐らせる。古い言葉に「富をなそうとすれば仁ではいられない」というのも、結局そういうところから出た言葉であろう。アリストテレスは「すべての商売は罪悪である」と言ったそうだが、それはまだ人の文化が開けていなかった時代のことで、いかに大哲学者の言い分であっても、まともには受け取れない。しかし孟子も「富をなせば仁ならず、仁をなせば富まず」と言っているから、同じく味わうべき言葉である。
解説
関連する章句
-
『論語と算盤』仁義と富貴・罪は金銭にあらずしかし前述のごとく人情の弱点として、利慾の念よりともすれば富を先にして道義を後にする弊を生じ、過重の結果、金銭万能のごとく考えて、大切なる精神上の問題を忘れて、物質の奴隷となりやすいものであるが、かくなりては責めその人にありとは言うものの、金銭の禍を恐れてその価値を卑しく観るようになって、再びアリストテレスの言を繰り返さしむるに至るであろう。
-
『論語と算盤』仁義と富貴・罪は金銭にあらずかつて某新聞紙上にアリストテレスの言として、「すべての商業は罪悪である」という意味の句があったと記憶しているが、随分極端な言い方であると思ったが、なお再考すれば、すべて得失が伴うものには、人もその利慾に迷いやすく、自然仁義の道は外れる場合が生ずるものであるから、それらの弊害を誡むるためかような過激なる言葉を用いたものかと思われる。どうしても人情の弱点として、物質上の事に眼が着きやすく、精神上のことを忘れて物質を過重する弊害の生ずるはやむを得ないことであるが、思想も幼稚であり、道徳上の観念の卑しい者ほど、この弊害に陥りやすいものである。ゆえに昔は全体から観れば、智識も乏しく道義心も浅薄にして、得失のため罪悪に陥る者が多かったのであると思われるので、ことさらに金銭を卑しむ風が高まったのであろう。
-
『論語と算盤』仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよ余が平素の持論としてしばしば言う所のことであるが、従来利用厚生と仁義道徳の結合が甚だ不十分であったために、「仁をなせばすなわち富まず、富めばすなわち仁ならず」、利に就けば仁に遠ざかり、義によれば利を失うというように、仁と富とをまったく別物に解釈してしまったのは、甚だ不都合の次第である。この解釈の極端なる結果は利用厚生に身を投じた者は、仁義道徳を顧みる責任はないというような所に立ち至らしめた。余はこの点について多年痛嘆措くあたわざるものであったが、要するにこれ後世の学者のなせる罪で、既に数次述べたるごとく、孔孟の訓えが「義利合一」であることは、四書を一読する者のただちに発見する所である。
-
『論語と算盤』仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよ孔孟教の根底を誤り伝えたる結果は、利用厚生に従事する実業家の精神をして、ほとんどすべてを利己主義たらしめ、その念頭に仁義もなければ道徳もなく、甚だしきに至っては法網をくぐられるだけくぐっても金儲けをしたいの一方にさせてしまった。したがって今日のいわゆる実業家の多くは、自分さえ儲ければ他人や世間はどうあろうと構わないという腹で、もし社会的および法律的の制裁が絶無としたならば、彼らは強奪すらしかねぬという情けない状態に陥っている。もし永くこの状態を押して行くとすれば、将来貧富の懸隔はますます甚だしくなり、社会はいよいよあさましい結果に立ち至る事と予想しなければならぬ。これまことに孔孟の訓えを誤り伝えたる学者が数百年来跋扈していた余毒である。とにかく世の中が進むにつれて、実業界においても生存競争がますます激しくなるは自然の結果と言ってよい。
-
『論語と算盤』算盤と権利・競争の善意と悪意お互い実業者側、ことに輸出貿易に従事する諸君に向かって商業道徳というと、商業にのみ道徳があるように聞こゆるが、道徳というものは世の中の人道であるから、単に商業家にのみ望むべきもので無い。商業の道徳はかくある、武士の道徳はこうである、政治家の道徳はこのようであると、何か官服の制度みたように、線が三つあるとか四つあるとかいうごとき変わったものではない。人道であるからすべての人が守るべきもので、孔子の教えで言うならば「孝悌は仁を為すの本」というように、初め孝悌から践み出して、それから大きく仁義にもなり、忠恕にもなる。これを総称して道徳というようになって来るのであろう。そういう広い人道的の道徳でなくして、商売上ことに輸出営業などについて注意を望むのは、競争に属する道徳である。これは特に申し合わせて、その間の約束を道徳的に堅固にしたいと、余は希望してやまぬのである。
-
『論語と算盤』仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよ後世儒者のその意を誤り伝えられた一例を挙ぐれば、宋の大儒たる朱子が、孟子の序に「計を用い数を用うるは、たとい功業を立て得るも、ただこれ人欲の私にして、聖賢の作処とは天地懸隔す」と説き、貨殖功利のことを貶している。その言葉を押し進めて考えてみれば、かのアリストートルの「すべての商業は罪悪なり」と言える言葉に一致する。これを別様の意味から言えば、仁義道徳は仙人じみた人の行うべきことであって、利用厚生に身を投ずるものは仁義道徳を外にしても構わぬというに帰着するのである。かくのごときは決して孔孟教の骨髄ではなく、かの閩洛派の儒者によって捏造された妄説にほかならぬ。しかるに我が国では元和寛永の頃よりこの学説が盛んに行われ、学問といえばこの学説よりほかにはないというまでに至った。そしてこの学説は今日の社会にいかなる余弊をもたらしているのであろうか。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
古典の入門書『人生の教科書』(PDF)と、師導の全機能1か月がセットで700円。二十四の悩みに、論語・老子・孫子から徒然草・五輪書までが答えます。
本の中身を見る