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福翁自伝 / 王政維新・幕府の攘夷主義(3)

「成程、爾う云えば分らないことはないが、何分ドウも争と云う文字が穏かならぬ。是れではドウモ御老中方へ御覧に入れることが出来ないと、妙な事を云うその様子を見るに、経済書中に人間互に相譲るとか云うような文字が見たいのであろう。例えば商売をしながらも忠君愛国、国家の為めには無代価でも売るとか云うような意味が記してあったらば気に入るであろうが、夫れは出来ないから、「ドウも争と云う字が御差支ならば、外に飜訳の致しようもないから、丸で是れは削りましょうと云て、競争の文字を真黒に消して目録書を渡したことがある。この一事でも幕府全体の気風は推察が出来ましょう。夫れから又長州征伐のとき外国人は中々注意して居て、或時英人であったか米人であったか幕府に書翰を出し、長州の大名にドウ云う罪があって征伐するのだろうか、ソレを承りたいと云て来た。爾うするとその時の閣老役人達がいろ/\評議をしたと見え、長々と返辞を遣たその返辞の中に、開鎖論と云うことを頓と云わない。当りまえならば国を開いた今日、長州の大名は政府の命令を奉ぜずに外国人を敵視するとか、下ノ関で外国の船艦に発砲したからとか云いそうなものであるに、ソンな事は一言半句も云わないで、イヤどうも京都に暴れ込んだとか、或は勅命に戻り台命に背き、その罪南山の竹を尽すも数えがたしと云うような、漢学者流の文句をゴテ/″\書て遣た。私はその返辞を見て、コリャどうも仕様がない、表面には開国を装うて居るも、幕府は真実自分も攘夷が為たくて堪らないのだ、迚もモウ手の着けようのない政府だと、実に愛想が尽きて同情を表する気がない。

新字:「成程、爾う云えば分らないことはないが、何分ドウも争と云う文字が穏かならぬ。是れではドウモ御老中方へ御覧に入れることが出来ないと、妙な事を云うその様子を見るに、経済書中に人間互に相譲るとか云うような文字が見たいのであろう。例えば商売をしながらも忠君愛国、国家の為めには無代価でも売るとか云うような意味が記してあったらば気に入るであろうが、夫れは出来ないから、「ドウも争と云う字が御差支ならば、外に翻訳の致しようもないから、丸で是れは削りましょうと云て、競争の文字を真黒に消して目録書を渡したことがある。この一事でも幕府全体の気風は推察が出来ましょう。夫れから又長州征伐のとき外国人は中々注意して居て、或時英人であったか米人であったか幕府に書翰を出し、長州の大名にドウ云う罪があって征伐するのだろうか、ソレを承りたいと云て来た。爾うするとその時の閣老役人達がいろ/\評議をしたと見え、長々と返辞を遣たその返辞の中に、開鎖論と云うことを頓と云わない。当りまえならば国を開いた今日、長州の大名は政府の命令を奉ぜずに外国人を敵視するとか、下ノ関で外国の船艦に発砲したからとか云いそうなものであるに、ソンな事は一言半句も云わないで、イヤどうも京都に暴れ込んだとか、或は勅命に戻り台命に背き、その罪南山の竹を尽すも数えがたしと云うような、漢学者流の文句をゴテ/″\書て遣た。私はその返辞を見て、コリャどうも仕様がない、表面には開国を装うて居るも、幕府は真実自分も攘夷が為たくて堪らないのだ、迚もモウ手の着けようのない政府だと、実に愛想が尽きて同情を表する気がない。

書き下し

「成程、爾う云えば分らないことはないが、何分ドウも争と云う文字が穏かならぬ。是れではドウモ御老中方へ御覧に入れることが出来ないと、妙な事を云うその様子を見るに、経済書中に人間互に相譲るとか云うような文字が見たいのであろう。例えば商売をしながらも忠君愛国、国家の為めには無代価でも売るとか云うような意味が記してあったらば気に入るであろうが、夫れは出来ないから、「ドウも争と云う字が御差支ならば、外に飜訳の致しようもないから、丸で是れは削りましょうと云て、競争の文字を真黒に消して目録書を渡したことがある。この一事でも幕府全体の気風は推察が出来ましょう。夫れから又長州征伐のとき外国人は中々注意して居て、或時英人であったか米人であったか幕府に書翰を出し、長州の大名にドウ云う罪があって征伐するのだろうか、ソレを承りたいと云て来た。爾うするとその時の閣老役人達がいろ/\評議をしたと見え、長々と返辞を遣たその返辞の中に、開鎖論と云うことを頓と云わない。当りまえならば国を開いた今日、長州の大名は政府の命令を奉ぜずに外国人を敵視するとか、下ノ関で外国の船艦に発砲したからとか云いそうなものであるに、ソンな事は一言半句も云わないで、イヤどうも京都に暴れ込んだとか、或は勅命に戻り台命に背き、その罪南山の竹を尽すも数えがたしと云うような、漢学者流の文句をゴテ/″\書て遣た。私はその返辞を見て、コリャどうも仕様がない、表面には開国を装うて居るも、幕府は真実自分も攘夷が為たくて堪らないのだ、迚もモウ手の着けようのない政府だと、実に愛想が尽きて同情を表する気がない。

現代語訳

「なるほど、そう言えば分からないことはないが、何分どうも争という文字が穏やかでない。これではどうも御老中方にご覧に入れることができない」と、妙なことを言います。その様子を見ると、経済書の中に、人間が互いに相譲るとかいうような文字が見たいのでしょう。たとえば商売をしながらも忠君愛国、国家のためには無代価でも売るとかいうような意味が記してあったら気に入るでしょうが、それはできないから、「どうも争という字がお差し支えなら、ほかに翻訳のしようもないから、まるでこれは削りましょう」と言って、競争の文字を真っ黒に消して目録書を渡したことがあります。この一事でも、幕府全体の気風は推察ができましょう。それからまた、長州征伐のとき、外国人はなかなか注意していて、あるとき英国人であったか米国人であったか、幕府に書簡を出し、長州の大名にどういう罪があって征伐するのだろうか、それを承りたいと言ってきました。するとその時の閣老や役人たちがいろいろ評議したとみえ、長々と返事をしましたが、その返事の中に、開国か鎖国かということをさっぱり言いません。当たり前ならば、国を開いた今日、長州の大名は政府の命令を奉ぜずに外国人を敵視するとか、下関で外国の船艦に発砲したからとか言いそうなものですのに、そんなことは一言半句も言わず、いやどうも京都に暴れ込んだとか、あるいは勅命に戻り台命に背き、その罪は南山の竹を尽くしても数えがたしというような、漢学者流の文句をごてごてと書いて遣わしました。私はその返事を見て、こりゃどうも仕様がない、表面には開国を装っていても、幕府は真実、自分も攘夷がしたくてたまらないのだ、とてももう手の着けようのない政府だと、実に愛想が尽きて、同情を表する気がありませんでした。

解説

競争の訳語に難色を示した役人は、結局、争という字が穏やかでないので老中に見せられないと言い、福沢はその字を黒く塗りつぶして目録を渡しました。経済書に相譲るなどの美しい字が見たいのだろうという皮肉が利いています。さらに長州征伐の際、外国人が征伐の理由を尋ねたのに、幕府が開国か攘夷かには一言も触れず、漢学調の罪状を並べただけの返事をしたことから、幕府の本心が攘夷だと確信したと語ります。形式や言葉の体裁を優先し、実質の議論を避ける組織体質への失望は、現代の職場でも経験する人がいるでしょう。

この章句が説くこと

競争争の字老中長州征伐漢学者流愛想が尽きる

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