論語と算盤 / 実業と士道・此の如き誤解あり
蓋ふに此の如く道理を誤るやうになつたのは、一般の習慣の然らしめた結果といはなければならぬ、元和元年に大阪方が亡び、徳川家康が天下を統一し、武を偃せて復た之を須ゐない時代となつて以来、政治の方針は一に孔子教より出て居つたやうである、その以前、支那或は西洋に相当の接触もしたのであるが、偶〻「ゼシユイツト」教徒が、日本に対して恐るべき企を持つて居るかに見えたことがあつた、或は宗教によつて国を取るのを其の趣意として居るなどといふ書面が和蘭から来たといふやうなことから、海外との接触を全く絶つて、僅か、長崎の一局部に於てのみ之を許し、内は全く武力を以て之を守り治めた、而して其の武力を以て治める人の遵奉したのは実に孔子教であつた、修身、斉家、治国、平天下の調子で治めるといふのが幕府の方針であつた、故に武士たる者は謂ゆる仁義孝悌忠信の道を修めた、さうして仁義道徳を以て人を治める者は、生産利殖などに関係する者でない、
書き下し
けだしこのごとく道理を誤るようになったのは、一般の習慣の然らしめた結果といわなければならぬ。元和元年に大阪方が亡び、徳川家康が天下を統一し、武を偃せてまたこれを用いない時代となって以来、政治の方針は一に孔子教より出ておったようである。その以前、支那あるいは西洋に相当の接触もしたのであるが、たまたま「ゼシュイット」教徒が、日本に対して恐るべき企てを持っているかに見えたことがあった。あるいは宗教によって国を取るのをその趣意としているなどという書面がオランダから来たというようなことから、海外との接触を全く絶って、わずか、長崎の一局部においてのみこれを許し、内は全く武力をもってこれを守り治めた。そしてその武力をもって治める人の遵奉したのは実に孔子教であった。修身、斉家、治国、平天下の調子で治めるというのが幕府の方針であった。ゆえに武士たる者はいわゆる仁義孝悌忠信の道を修めた。そうして仁義道徳をもって人を治める者は、生産利殖などに関係する者でない。
現代語訳
思うに、このように道理を誤るようになったのは、世の一般の習慣がそうさせた結果だと言わなければならない。元和元年に大坂方が滅び、徳川家康が天下を統一して、武器を伏せてもう用いない時代となって以来、政治の方針はもっぱら孔子の教えから出ていたようである。それ以前には、中国や西洋ともかなりの接触があったのだが、たまたまイエズス会の教徒が日本に対して恐ろしい企てを抱いているように見えたことがあった。あるいは、宗教によって国を取ることを目的にしているなどという書面がオランダから来たというようなことから、海外との接触をまったく断ち、わずかに長崎の一局部においてだけそれを許し、国内はまったく武力によって守り治めた。そしてその武力で治める人々が奉じたのは、実に孔子の教えであった。身を修め、家を斉え、国を治め、天下を平らかにするという調子で治めるのが幕府の方針であった。だから武士たる者は、いわゆる仁・義・孝・悌・忠・信の道を修めた。そうして仁義道徳によって人を治める者は、生産や利殖などに関わる者ではない、とされたのである。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』実業と士道・此の如き誤解あり生産利殖は仁義道徳に関係のない人の携わるものとされていたから、あたかもすべて商業は罪悪なりと言われた昔時と同様の状態であった。これがほとんど三百年間の風をなした。それも初めは極く簡単な方法でよかったが、次第に智識は減じ気力は衰え、形式のみ繁多になり、ついに武士の精神は廃り、商人は卑屈になって、虚偽横行の世の中となったのである。
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『論語と算盤』実業と士道・武士道は即ち実業道なりけだし封建時代において、武士道と殖産功利の道と相背馳するがごとく解せられたのは、なおかの儒者が、仁と富とは並び行われざるもののごとく心得たと同一の誤謬であって、両者共に相背馳するものでないとの理由は、今日既に世人の認容し了解された所であろうと思う。孔子のいわゆる「富と貴とはこれ人の欲する所なり、その道をもってせずしてこれを得れば処らざるなり、貧と賤とはこれ人の悪む所なり、その道をもってせずしてこれを得るも去らざるなり」とは、これ誠に武士道の真髄たる正義、廉直、義侠等に適合するものではあるまいか。孔子の訓において、賢者が貧賤に処してその道を易えぬというのは、あたかも武士が戦場に臨んで敵に後ろを見せざるの覚悟と相似たるもので、またかのその道をもってするにあらざれば、たとい富貴を得ることがあっても、安んじてこれに処らぬと言うのは、これまた古え武士がその道をもってせざれば一毫も取らなかった意気と、その軌を一にするものと言ってよろしかろう。
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『論語と算盤』人格と修養・修養は理論ではないしかるに日本においてはその空理空文の死学であった宋朝の儒教を利用したため、かえって実学の効験を発揮したのである。これをよく用いたのは徳川家康である。元亀天正の頃は日本を廿八天下と称して、国内麻のごとくに乱れて、諸侯皆武備にのみ心を尽くしておったのである。その中にて家康は大いに達観して、到底武のみをもって治国平天下の策とすべきで無いということを悟り、大いに心を文事に注いで、支那においては死学空文であった朱子の儒学を採ったのである。当初まず藤原惺窩を聘し、次いで林羅山を用いて、しきりに学問を実際に応用した。すなわち理論と実際とを調和し接近せしめたのである。現に家康が遺訓の一として今日まで人口に膾炙する『人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし、急ぐべからず、不自由を常と思えば不足なく、心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし、堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え、勝つ事ばかり知りて負くる事を知らざれば、害その身に至る。
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『論語と算盤』実業と士道・功利学の弊を芟除すべし日本魂、武士道をもって誇りとする我が国の商工業者に道義的観念の乏しいということは、実に悲しむべきことであるが、そもそもその由って来るところをたずぬれば、従来因襲する教育の弊であると思う。予は歴史家にあらずまた学者にあらざれば、遠くその根源を究むることはできないけれども、かの「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」という、朱子派の儒教主義は、近く維新前まで文教の大権を掌握せる林家の学によってその色彩を濃厚にし、被治者階級に属する農工商の生産界は、道徳の天則外に放置せらるるとともに、己れまた自ずから道義に束縛せらるるの必要なしと感ずるに至った。
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『論語と算盤』人格と修養・東照公の修養これらの批評はこれだけで止めますが、とにかくこの御遺訓が論語より出たということは、諸君にも明瞭にお解りでありましょう。そのほかにもこの道徳についてはよほどお心を用いられたものと見える。元亀天正の頃はあの通り乱世が打ち続いて、世の中に文学趣味などはほとんど無くなり、仁義道徳の何者か分からぬという時に、誰が申し上げたともなく、とく既に文学を盛んにしなければならぬということについて御心を労され、しかもそれが根本的文学であって、切に仁義道徳を重んずる主義をもって全然朱子学を用いられたように思います。爾来追々と経学にも各派が生じて参りましたが、林家では徹頭徹尾朱子学を主としている。東照公のこれらの御用意はいかなる御手際であるか、私は敬服に余りありというほかない。
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『論語と算盤』実業と士道・此の如き誤解ありすなわち「仁をなせば富まず、富をなせば仁ならず」を事実において行ったのである。人を治める方は消費者であるから生産には従事しない。生産利殖のことをするのは、人を治め、人を教うる者の職分に反するものとして、いわゆる武士は喰わねど高楊枝という風を保った。人を治める者は人に養わるるものなり。ゆえに人の食を喰むものは人の事に死し、人の楽しみを楽しむ者は人の憂いを憂うというが彼らの本分と考えられていた。
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