論語と算盤 / 実業と士道・功利学の弊を芟除すべし
然るに世人は此種の人物を成功者として尊敬し羨望し、青年後進の徒も亦これを目標として、何とかして其塁を摩せんとするに腐心する所より、悪風滔々として底止するところを知らざる勢となつて居る、斯く云へば、我が商業者の総ては皆不信背徳の醜漢のやうであるが、孟子も『人の性は善なり』と言へる如く、善悪の心は人皆之れあれば、中には君子的人物であつて、深く商業道徳の頽廃を慨し、之が救済に努力し居る者も尠くないが、何にせよ既往数百年来の弊習を遺伝し、功利の学説によりて悪き方面の智巧を加へたる者を、一朝有道の君子たらしむるは容易に望み得らるべきでは無い、去迚それを此儘に放任するは、根なき枝に葉を繁らし、幹なき樹に花を開かしめんとするものにて、国本培養も商権拡張も、到底得て望むべきに非ざれば、
書き下し
しかるに世人はこの種の人物を成功者として尊敬し羨望し、青年後進の徒もまたこれを目標として、何とかしてその塁を摩せんとするに腐心する所より、悪風滔々として底止するところを知らざる勢いとなっている。かく言えば、我が商業者のすべては皆不信背徳の醜漢のようであるが、孟子も「人の性は善なり」と言えるごとく、善悪の心は人皆これあれば、中には君子的人物であって、深く商業道徳の頽廃を慨し、これが救済に努力している者も尠くないが、何にせよ既往数百年来の弊習を遺伝し、功利の学説によりて悪しき方面の智巧を加えたる者を、一朝有道の君子たらしむるは容易に望み得らるべきでは無い。さりとてそれをこのままに放任するは、根なき枝に葉を繁らし、幹なき樹に花を開かしめんとするものにて、国本培養も商権拡張も、到底得て望むべきにあらざれば、
現代語訳
ところが世間の人は、この種の人物を成功者として尊敬しうらやみ、若い後進たちもまたこれを目標にして、何とかしてその域に迫ろうと腐心するものだから、悪い風潮がとめどなく広がって、とどまるところを知らない勢いになっている。こう言うと、我が国の商業者はすべて信義に背き徳に背く醜い者ばかりのようだが、孟子も「人の本性は善である」と言っているように、善悪の心は誰にでもあるのだから、中には君子と呼ぶべき人物がいて、商業道徳の頽廃を深く嘆き、その救済に努めている者も少なくない。しかし何にせよ、過去数百年来の悪い習わしを受け継ぎ、功利の学説によって悪い方面の知恵まで加えた者を、一朝にして道を備えた君子にすることは、たやすく望めることではない。かといって、それをこのまま放っておくのは、根のない枝に葉を茂らせ、幹のない木に花を咲かせようとするようなもので、国の根本を養うことも、商業上の権益を広げることも、とうてい望めないのだから、
解説
関連する章句
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『論語と算盤』理想と迷信・日新なるを要す商売は己を利することを眼目とするために、自分さえ利すればそれでよい、他人の迷惑は知らぬ存ぜぬという考えを持っている人がある。それゆえに利殖と道徳とは一致せぬという人もあるが、これは間違いで、そんな古い考えは今の世に通用させてはならぬ。維新頃までは、社会の上流、士大夫とも言うべき人は利殖に関係しないで、人格の低いものがこれに当たるというのであった。その後この風習は改まったが、まだ余喘を保っている。孟子は、利殖と仁義道徳とは一致するものであると言った。その後の学者がこの両者を引き離してしまった。仁義をなせば富貴に遠く、富貴なれば仁義に遠ざかるものとしてしまった。町人は素町人と呼びて賤められ、士のともに齢いすべきものでないとせられ、商人も卑屈に流れ、儲け主義一点張りとなった。これがために経済界の進歩は幾十年幾百年遅れたか分からぬ。今日は漸次消滅しつつあるが、まだ不足である。利殖と仁義の道とは一致するものであることを知らせたい。私は論語と十露盤とをもって指導しているつもりである。
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『論語と算盤』仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよ孔孟教の根底を誤り伝えたる結果は、利用厚生に従事する実業家の精神をして、ほとんどすべてを利己主義たらしめ、その念頭に仁義もなければ道徳もなく、甚だしきに至っては法網をくぐられるだけくぐっても金儲けをしたいの一方にさせてしまった。したがって今日のいわゆる実業家の多くは、自分さえ儲ければ他人や世間はどうあろうと構わないという腹で、もし社会的および法律的の制裁が絶無としたならば、彼らは強奪すらしかねぬという情けない状態に陥っている。もし永くこの状態を押して行くとすれば、将来貧富の懸隔はますます甚だしくなり、社会はいよいよあさましい結果に立ち至る事と予想しなければならぬ。これまことに孔孟の訓えを誤り伝えたる学者が数百年来跋扈していた余毒である。とにかく世の中が進むにつれて、実業界においても生存競争がますます激しくなるは自然の結果と言ってよい。
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『論語と算盤』仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよ後世儒者のその意を誤り伝えられた一例を挙ぐれば、宋の大儒たる朱子が、孟子の序に「計を用い数を用うるは、たとい功業を立て得るも、ただこれ人欲の私にして、聖賢の作処とは天地懸隔す」と説き、貨殖功利のことを貶している。その言葉を押し進めて考えてみれば、かのアリストートルの「すべての商業は罪悪なり」と言える言葉に一致する。これを別様の意味から言えば、仁義道徳は仙人じみた人の行うべきことであって、利用厚生に身を投ずるものは仁義道徳を外にしても構わぬというに帰着するのである。かくのごときは決して孔孟教の骨髄ではなく、かの閩洛派の儒者によって捏造された妄説にほかならぬ。しかるに我が国では元和寛永の頃よりこの学説が盛んに行われ、学問といえばこの学説よりほかにはないというまでに至った。そしてこの学説は今日の社会にいかなる余弊をもたらしているのであろうか。
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『論語と算盤』実業と士道・功利学の弊を芟除すべし往時の下級生産者より出でて、あっぱれ身を立て家を興し、一躍具瞻の地位に進みたる人ももとより尠くないが、これらの人々ははたして道徳仁義に終始し、正路に歩し、公道を進み、俯仰天地に怍ずるなきの心事をもって、よく今日に至った者であろうか。関係の会社銀行等の事業を盛大ならしむべく、昼夜不断の努力を尽くすは、実業家としてまことに立派のことである。その株主に忠なる者と称するも不可なしであるけれども、もし会社銀行のために尽くす精神が、よってもって自ら利せんとするいわゆる利己の一念にとどまりて、株主の配当を多くするは、自家の金庫を重からしむるためなりとせば、もし会社銀行を破産せしめ、株主に欠損を与うるをもって自己の利益が多いという場合に際会したならば、あるいはこれを忍ぶやも測られない。孟子のいわゆる「奪わずんば饜かず」とはすなわちこれである。
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『論語と算盤』実業と士道・果して誰の責任ぞ世人ややもすれば維新以後における商業道徳は、文化の進歩に伴わずしてかえって衰えたと言う。しかしながら余はなにゆえに道徳が退歩、もしくは頽廃したか、その理由を知るに苦しむ者である。これを昔日の商工業者に比すれば、今日の商工業者とそのいずれが道徳観念に富み、いずれが信用を重んずるであろうか。余は今日をもって遙かに昔日に優るものと断言するに憚からぬ。けれども今日他の事物の進歩した割合に道徳が進んでおらぬとは、すでに前説のごとくであるから、余は必ずしも世人の説を駁する訳ではない。ただ吾人のこの間に処するものは、かくのごとき世評の生ずる理由を詮索し、一日も早く道徳をして物質的文明と比肩せしめ得るの程度に向上させなくてはならぬ。それは前に述べたるがごとき方法の下に道徳を講ずるのが先決問題であろう。しかしそれとても特別の工夫方法を要する訳でなく、ただ日常の経営においてさよう心掛けておれば足るのであるから、さまで難しいものではない。
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『論語と算盤』実業と士道・功利学の弊を芟除すべし商業道徳の骨髄にして、国家的、むしろ世界的に直接至大の影響ある、信の威力を闡揚し、我が商業家のすべてをして、信は万事の本にして、一信よく万事に敵するの力あることを理解せしめ、もって経済界の根幹を堅固にするは、緊要中の緊要事である。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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