論語と算盤 / 実業と士道・功利学の弊を芟除すべし
又富豪巨商に仕へて、一意主家の為に尽瘁する者の如きも、唯その事蹟より見れば、克く仕ふる所に忠なる者といふことは出来るが、其の忠義的行為が、全く自家損得の打算より発し、主家を富ましむるは自ら富む所以、番頭手代と見下げらる〻は面白からざるも、実際の収入は遙かに尋常事業家に優るものあれば、我は名を捨て得を取るなりとの心事より出でたるものなるときは、其の忠義振りも、帰する所は利益問題の四字に止まり、同じく道徳の天則外にあるものと云うて差支あるまい。
新字:又富豪巨商に仕へて、一意主家の為に尽瘁する者の如きも、唯その事跡より見れば、克く仕ふる所に忠なる者といふことは出来るが、其の忠義的行為が、全く自家損得の打算より発し、主家を富ましむるは自ら富む所以、番頭手代と見下げらる〻は面白からざるも、実際の収入は遥かに尋常事業家に優るものあれば、我は名を捨て得を取るなりとの心事より出でたるものなるときは、其の忠義振りも、帰する所は利益問題の四字に止まり、同じく道徳の天則外にあるものと云うて差支あるまい。
書き下し
また富豪巨商に仕えて、一意主家のために尽瘁する者のごときも、ただその事蹟より見れば、よく仕うる所に忠なる者ということはできるが、その忠義的行為が、全く自家損得の打算より発し、主家を富ましむるは自ら富む所以、番頭手代と見下げらるるは面白からざるも、実際の収入は遙かに尋常事業家に優るものあれば、我は名を捨て得を取るなりとの心事より出でたるものなるときは、その忠義振りも、帰する所は利益問題の四字にとどまり、同じく道徳の天則外にあるものと言うて差支あるまい。
現代語訳
また、富豪や大商人に仕えて、ひたすら主家のために尽くす者なども、ただその行いだけを見れば、仕える相手によく忠実な者だと言うことはできる。しかしその忠義らしい行いが、まったく自分の損得の計算から出ていて、主家を富ませるのは自分が富むためであり、番頭や手代と見下されるのは面白くないが、実際の収入は並の事業家よりはるかに多いのだから、自分は名を捨てて実を取るのだ、という心から出たものであるならば、その忠義ぶりも、結局は「利益問題」の四字に尽き、同じく道徳の自然の法の外にあるものだと言って差し支えあるまい。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』実業と士道・功利学の弊を芟除すべし往時の下級生産者より出でて、あっぱれ身を立て家を興し、一躍具瞻の地位に進みたる人ももとより尠くないが、これらの人々ははたして道徳仁義に終始し、正路に歩し、公道を進み、俯仰天地に怍ずるなきの心事をもって、よく今日に至った者であろうか。関係の会社銀行等の事業を盛大ならしむべく、昼夜不断の努力を尽くすは、実業家としてまことに立派のことである。その株主に忠なる者と称するも不可なしであるけれども、もし会社銀行のために尽くす精神が、よってもって自ら利せんとするいわゆる利己の一念にとどまりて、株主の配当を多くするは、自家の金庫を重からしむるためなりとせば、もし会社銀行を破産せしめ、株主に欠損を与うるをもって自己の利益が多いという場合に際会したならば、あるいはこれを忍ぶやも測られない。孟子のいわゆる「奪わずんば饜かず」とはすなわちこれである。
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『論語と算盤』実業と士道・武士道は即ち実業道なりおよそ人としてその処世の本旨を忘れ、非道を行うても私利私欲を充たそうとすることがあったり、あるいは権勢に媚び諂うてもその身の栄達を計らんと欲するは、これ実に人間行為の標準を無視したもので、かくのごときは決してその身、その地位を永遠に維持する所以の道ではないのである。
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『論語と算盤』理想と迷信・日新なるを要す商売は己を利することを眼目とするために、自分さえ利すればそれでよい、他人の迷惑は知らぬ存ぜぬという考えを持っている人がある。それゆえに利殖と道徳とは一致せぬという人もあるが、これは間違いで、そんな古い考えは今の世に通用させてはならぬ。維新頃までは、社会の上流、士大夫とも言うべき人は利殖に関係しないで、人格の低いものがこれに当たるというのであった。その後この風習は改まったが、まだ余喘を保っている。孟子は、利殖と仁義道徳とは一致するものであると言った。その後の学者がこの両者を引き離してしまった。仁義をなせば富貴に遠く、富貴なれば仁義に遠ざかるものとしてしまった。町人は素町人と呼びて賤められ、士のともに齢いすべきものでないとせられ、商人も卑屈に流れ、儲け主義一点張りとなった。これがために経済界の進歩は幾十年幾百年遅れたか分からぬ。今日は漸次消滅しつつあるが、まだ不足である。利殖と仁義の道とは一致するものであることを知らせたい。私は論語と十露盤とをもって指導しているつもりである。
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『論語と算盤』実業と士道・武士道は即ち実業道なり果たしてしからば富貴は聖賢もまたこれを望み、貧賤は聖賢もまたこれを欲しなかったけれども、ただかの人々は道義を本とし富貴貧賤を末としたが、古えの商工業者はこれを反対にしたから、ついに富貴貧賤を本として道義を末とするようになってしまった。誤解もまた甚だしいではないか。
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『論語と算盤』仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよ孔孟教の根底を誤り伝えたる結果は、利用厚生に従事する実業家の精神をして、ほとんどすべてを利己主義たらしめ、その念頭に仁義もなければ道徳もなく、甚だしきに至っては法網をくぐられるだけくぐっても金儲けをしたいの一方にさせてしまった。したがって今日のいわゆる実業家の多くは、自分さえ儲ければ他人や世間はどうあろうと構わないという腹で、もし社会的および法律的の制裁が絶無としたならば、彼らは強奪すらしかねぬという情けない状態に陥っている。もし永くこの状態を押して行くとすれば、将来貧富の懸隔はますます甚だしくなり、社会はいよいよあさましい結果に立ち至る事と予想しなければならぬ。これまことに孔孟の訓えを誤り伝えたる学者が数百年来跋扈していた余毒である。とにかく世の中が進むにつれて、実業界においても生存競争がますます激しくなるは自然の結果と言ってよい。
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『論語と算盤』仁義と富貴・真正の利殖法さりながらその利殖を図るものも、もしことごとく己れさえ利すれば、他はどうでもよかろうということをもって利殖を図って行ったならば、その事物はいかに相成るか。むずかしいことを言うようであるけれども、もし果たして前に述べたごとき有様であったならば、かの孟子の言う「何ぞ必ずしも利を曰わん、また仁義あるのみ」云々、「上下こもごも利を征りて国危うし」云々、「いやしくも義を後にして利を先にすることをせば、奪わずんば饜かず」となるのである。それゆえに真正の利殖は仁義道徳に基づかなければ、決して永続するものでないと私は考える。
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