論語と算盤 / 実業と士道・功利学の弊を芟除すべし
欧米にも倫理の学は盛である、品性修養の声も甚だ高い、併し其の出発点が宗教によりて、我国の民性と容易に一致し難き所があるより最も広く歓迎せられ、最も大なる勢力となつたのは、此の道徳的の観念では無くして、利を増し産を興すに覿面の効果ある科学的智識、即ち功利の学説である、富貴は人類の性慾とも称すべきであるに、初めより道義的観念の欠乏せる者に向つて、教ふるに功利の学説を以てし、薪に油を注いで其の性慾を煽るに於ては、其の結果は蓋し知るべしではないか。
書き下し
欧米にも倫理の学は盛んである。品性修養の声もはなはだ高い。しかしその出発点が宗教によりて、我が国の民性と容易に一致し難き所があるより最も広く歓迎せられ、最も大なる勢力となったのは、この道徳的の観念では無くして、利を増し産を興すに覿面の効果ある科学的智識、すなわち功利の学説である。富貴は人類の性欲とも称すべきであるに、初めより道義的観念の欠乏せる者に向かって、教うるに功利の学説をもってし、薪に油を注いでその性欲を煽るにおいては、その結果はけだし知るべしではないか。
現代語訳
欧米でも倫理学は盛んである。品性を修養せよという声もたいへん高い。しかしその出発点が宗教に基づいていて、我が国の国民性とはたやすく一致しにくいところがあるため、最も広く歓迎され、最も大きな勢力となったのは、この道徳の観念ではなく、利を増やし産業を興すのにてきめんの効果がある科学的な知識、つまり功利の学説である。富と地位を求めるのは人間の本性とも言うべきものなのに、初めから道義の観念が欠けている者に向かって功利の学説を教え、薪に油を注ぐようにその欲望をあおれば、その結果はおそらく知れたことではないか。
解説
欧米にも倫理学はあり、品性修養を説く声も高い。渋沢はそれを認めたうえで、なぜ日本では倫理が入らず功利の学ばかりが広まったのかを説明する。欧米の倫理はキリスト教を出発点にしており、日本の民性とすぐには結びつかなかった。代わりに、利を増し産業を興すのにすぐ効く科学的な知識が歓迎された。富や地位を求める心は人間の本性であり、それ自体を渋沢は否定しない。問題は、道義の支えを持たない者に功利の技術だけを教えることである。それは薪に油を注ぐようなものだ、と。明治の近代化は殖産興業の技術を急いで取り入れた。その推進役の一人だった渋沢が、技術だけを入れて倫理を置き去りにした危うさを指摘している。能力を伸ばす教育と、その能力を何に使うかを考えさせる教育は、別々に用意しなければならない。
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