論語と算盤 / 実業と士道・果して誰の責任ぞ
維新以来物質的文明が急激なる発達をなしたるに反し、道徳の進歩がそれに伴はなかつたので、世人は此の不釣合の現象に著しく注目して、商業道徳退歩といふのであるとして見れば、仁義道徳の修養に心を用ゐ、物質的進歩と互角の地位に進ませるが目下の急務には相違ないが、一面から考察して見ると、単に外国の風習ばかりを見て、直ちにこれを我国に応用せんとすれば、或は不可能を免れぬこともある、
書き下し
維新以来物質的文明が急激なる発達をなしたるに反し、道徳の進歩がそれに伴わなかったので、世人はこの不釣合の現象に著しく注目して、商業道徳退歩というのであるとして見れば、仁義道徳の修養に心を用い、物質的進歩と互角の地位に進ませるが目下の急務には相違ないが、一面から考察して見ると、単に外国の風習ばかりを見て、直ちにこれを我が国に応用せんとすれば、あるいは不可能を免れぬこともある。
現代語訳
維新以来、物質文明が急激な発達を遂げたのに反して、道徳の進歩がそれに伴わなかったので、世間の人はこの不釣り合いな現象にことさら目をつけて、商業道徳が退歩したと言うのだとしてみれば、仁義道徳の修養に心を用いて、物質的な進歩と互角の位置まで進ませることが当面の急務であるには違いない。しかし別の面から考えてみると、ただ外国の風習ばかりを見て、それをすぐに我が国に当てはめようとすれば、あるいは不可能を免れないこともある。
解説
前の段の診断を受けて、渋沢は処方を二つの方向から考える。一つは、仁義道徳の修養によって道徳を物質的進歩と互角にまで引き上げること。これが急務であることは認める。もう一つは、外国の風習をそのまま持ち込んでも通用しないことがある、という注意である。明治の日本は、制度も技術も欧米から急いで取り入れた。だからこそ、移植できるものとできないものがあることを知っていた。道徳や商習慣は、その国の歴史や社会の組み立てに根ざしている。外国を基準に自国を裁くだけでは、改善の道筋は見えてこない。このあと渋沢は、日本人が君父への義務を個人の約束より重んじる習慣の例を挙げて、文化の違いを論じていく。海外の手本を取り入れるときには、根の違いを見極める必要がある。
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『論語と算盤』立志と学問・現在に働け私などは海外に交通するには、どうしても科学的智識が必要であるということを、声を嗄らして叫んだが、幸いにも追々その機運が起こって、明治十七八年にはこうした傾向が盛んになって、間もなく才学ともに備わった人が輩出するに至ったのである。それから以後今日までわずか三四十年の短い年月に、日本も外国には劣らないくらい物質的文明が進歩したが、その間にまた大なる弊害を生じたのである。徳川三百年間を太平ならしめた武断政治も、弊害を他に及ぼしたことは明らかであるが、またこの時代に教育された武士の中には、高尚遠大な性行の人も少なくはなかったのであるが、今日の人にはそれがない。富は積み重なっても、哀しいかな武士道とか、あるいは仁義道徳というものが、地を払っているといってよいと思う。すなわち精神教育がまったく衰えて来ると思うのである。
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