論語と算盤 / 実業と士道・功利学の弊を芟除すべし
日本魂、武士道を以て誇りとする我国の商工業者に道義的観念の乏しいと云ふことは、実に悲むべきことであるが、抑も其の由つて来るところを繹ぬれば、従来因襲する教育の弊であると思ふ、予は歴史家にあらず又学者にあらざれば、遠く其の根源を究むることは出来ないけれども、彼の『民可使由之、不可使知之』といふ、朱子派の儒教主義は、近く維新前まで文教の大権を掌握せる林家の学に依て其の色彩を濃厚にし、被治者階級に属する農工商の生産界は、道徳の天則外に放置せらる〻と共に、己れ亦自から道義に束縛せらる〻の必要なしと感ずるに至つた。
書き下し
日本魂、武士道をもって誇りとする我が国の商工業者に道義的観念の乏しいということは、実に悲しむべきことであるが、そもそもその由って来るところをたずぬれば、従来因襲する教育の弊であると思う。予は歴史家にあらずまた学者にあらざれば、遠くその根源を究むることはできないけれども、かの「民は之に由らしむべし、之を知らしむべからず」という、朱子派の儒教主義は、近く維新前まで文教の大権を掌握せる林家の学によってその色彩を濃厚にし、被治者階級に属する農工商の生産界は、道徳の天則外に放置せらるるとともに、己れまた自ずから道義に束縛せらるるの必要なしと感ずるに至った。
現代語訳
日本魂や武士道を誇りとする我が国の商工業者に道義の観念が乏しいということは、実に悲しむべきことであるが、そもそもその由来を尋ねてみれば、昔から受け継がれてきた教育の弊害であると思う。私は歴史家でもなければ学者でもないので、遠くその根源まで究めることはできないけれども、あの「民には従わせればよく、理由を知らせる必要はない」という朱子学派の儒教主義は、つい維新前まで教育行政の大権を握っていた林家の学問によってその色合いを濃くし、治められる側の階級に属する農工商の生産の世界は、道徳の自然の法の外に放り出されると同時に、自分たちもまた、おのずから道義に縛られる必要はないと感じるようになった。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』実業と士道・功利学の弊を芟除すべし商業道徳の骨髄にして、国家的、むしろ世界的に直接至大の影響ある、信の威力を闡揚し、我が商業家のすべてをして、信は万事の本にして、一信よく万事に敵するの力あることを理解せしめ、もって経済界の根幹を堅固にするは、緊要中の緊要事である。
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『論語と算盤』実業と士道・此の如き誤解あり生産利殖は仁義道徳に関係のない人の携わるものとされていたから、あたかもすべて商業は罪悪なりと言われた昔時と同様の状態であった。これがほとんど三百年間の風をなした。それも初めは極く簡単な方法でよかったが、次第に智識は減じ気力は衰え、形式のみ繁多になり、ついに武士の精神は廃り、商人は卑屈になって、虚偽横行の世の中となったのである。
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『論語と算盤』仁義と富貴・義利合一の信念を確立せよ後世儒者のその意を誤り伝えられた一例を挙ぐれば、宋の大儒たる朱子が、孟子の序に「計を用い数を用うるは、たとい功業を立て得るも、ただこれ人欲の私にして、聖賢の作処とは天地懸隔す」と説き、貨殖功利のことを貶している。その言葉を押し進めて考えてみれば、かのアリストートルの「すべての商業は罪悪なり」と言える言葉に一致する。これを別様の意味から言えば、仁義道徳は仙人じみた人の行うべきことであって、利用厚生に身を投ずるものは仁義道徳を外にしても構わぬというに帰着するのである。かくのごときは決して孔孟教の骨髄ではなく、かの閩洛派の儒者によって捏造された妄説にほかならぬ。しかるに我が国では元和寛永の頃よりこの学説が盛んに行われ、学問といえばこの学説よりほかにはないというまでに至った。そしてこの学説は今日の社会にいかなる余弊をもたらしているのであろうか。
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『論語と算盤』理想と迷信・日新なるを要す商売は己を利することを眼目とするために、自分さえ利すればそれでよい、他人の迷惑は知らぬ存ぜぬという考えを持っている人がある。それゆえに利殖と道徳とは一致せぬという人もあるが、これは間違いで、そんな古い考えは今の世に通用させてはならぬ。維新頃までは、社会の上流、士大夫とも言うべき人は利殖に関係しないで、人格の低いものがこれに当たるというのであった。その後この風習は改まったが、まだ余喘を保っている。孟子は、利殖と仁義道徳とは一致するものであると言った。その後の学者がこの両者を引き離してしまった。仁義をなせば富貴に遠く、富貴なれば仁義に遠ざかるものとしてしまった。町人は素町人と呼びて賤められ、士のともに齢いすべきものでないとせられ、商人も卑屈に流れ、儲け主義一点張りとなった。これがために経済界の進歩は幾十年幾百年遅れたか分からぬ。今日は漸次消滅しつつあるが、まだ不足である。利殖と仁義の道とは一致するものであることを知らせたい。私は論語と十露盤とをもって指導しているつもりである。
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『論語と算盤』実業と士道・功利学の弊を芟除すべしこの学派の師宗朱子その人が、ただ大学者というまでにて、実践躬行、口に道徳を説き、身に仁義を行う底の人物でなかったから、林家の学風も、儒者は聖人の学説を講述する者、俗人はこれを実地に行うべきものとし、説く者と行う者との区別を生じ、これが結果として、孔孟のいわゆる民すなわち被治者階級に属する者は、ただ命これ奉じて、一村一町の公役行事を怠らざれば足るという卑屈根性を馴致し、道徳仁義は治者のなすべきこと、百姓は政府より預りたる田畑を耕し、町人は算盤の目をせせってさえおれば能事了るという考えが、習い性をなして国家を愛するとか、道徳を重んずるとかいう観念は全く欠乏したのである。鮑魚の市に入るものは自らその臭を知らずといえば、かかる数百年の悪風に養われ、いわゆる糞厮の臭きを忘れたるものを薫化し、陶冶し、あっぱれ有道の君子的人物となすは、もとより容易のことでは無いのに、欧米の新文明の輸入は、この道義的観念の欠乏に乗じ、翕然として功利の科学に向かわしめ、いよいよその悪風を助長することとなった。
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『論語と算盤』教育と情誼・理論より実際ところで、自分に最も関係の深い実業方面の教育について見るに、その昔にありては、実業教育と名付くべきほどのものはなかったが、維新以後になっても、明治十四五年の頃までは、この方面にはいささかの進歩を見ることは出来なかった。商業学校のごときも、その発達はわずかこの二十年ほどの間のことである。一体文明の進歩ということは政治、経済、軍事、商工業、学芸等がことごとく進んで、そこに始めて見ることが出来るので、その中のいずれか一が欠如しても、完全なる発達、文明の進歩のあるものではない。しかるに日本では、その文明の一大要素である商工業が、久しい間閑却して顧みられずにあった。翻って欧州の諸列強に見るに、他の方面の事ももちろん進歩しているが、その中でも取りわけ進んでいるのが実業である。すなわち商工業である。
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