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論語と算盤 / 立志と学問・現在に働け

私などは海外に交通するには、何うしても科学的智識が必要であるといふことを、声を嗄らして叫んだが、幸にも追々その機運が起つて、明治十七八年には斯うした傾向が盛んになつて、間もなく才学倶に備はつた人が輩出するに至つたのである、それから以後今日まで僅か三四十年の短い年月に、日本も外国には劣らないくらゐ物質的文明が進歩したが、その間にまた大なる弊害を生じたのである、徳川三百年間を太平ならしめた武断政治も、弊害を他に及ぼしたことは明かであるが、又この時代に教育された武士の中には、高尚遠大な性行の人も少くはなかつたのであるが、今日の人には其れがない、富は積み重なつても、哀しいかな武士道とか、或は仁義道徳といふものが、地を払つて居るといつて可いと思ふ、即ち精神教育が全く衰へて来ると思ふのである。

書き下し

私などは海外に交通するには、どうしても科学的智識が必要であるということを、声を嗄らして叫んだが、幸いにも追々その機運が起こって、明治十七八年にはこうした傾向が盛んになって、間もなく才学ともに備わった人が輩出するに至ったのである。それから以後今日までわずか三四十年の短い年月に、日本も外国には劣らないくらい物質的文明が進歩したが、その間にまた大なる弊害を生じたのである。徳川三百年間を太平ならしめた武断政治も、弊害を他に及ぼしたことは明らかであるが、またこの時代に教育された武士の中には、高尚遠大な性行の人も少なくはなかったのであるが、今日の人にはそれがない。富は積み重なっても、哀しいかな武士道とか、あるいは仁義道徳というものが、地を払っているといってよいと思う。すなわち精神教育がまったく衰えて来ると思うのである。

現代語訳

私などは、海外と交わるには何としても科学的な知識が必要だと、声をからして叫んだものだが、幸いにしだいにその機運が起こり、明治十七、八年にはこうした傾向が盛んになって、まもなく才能と学識をともに備えた人が次々と現れるようになった。それ以来今日まで、わずか三、四十年という短い年月のうちに、日本も外国に劣らないほど物質的文明が進歩したが、その間にまた大きな弊害が生じたのである。徳川三百年を太平に保った武断政治が、よそに弊害を及ぼしたことは明らかである。しかし、この時代に教育を受けた武士のなかには、気高く遠大な品性と行いの人も少なくなかった。今日の人にはそれがない。富は積み重なっても、悲しいことに、武士道とか仁義道徳とかいうものは、すっかり地を払ってしまったと言ってよいと思う。つまり精神教育がまったく衰えてきていると思うのである。

解説

ここで章の論理が折り返す。科学的知識の必要を叫び、商業教育を育て、三四十年で物質文明は外国に劣らぬところまで来た。ところが、その成功が新しい弊害を生んだ、と渋沢は言う。武士の教育には身分差別という大きな欠陥があった。それを認めたうえで、なお武士の中には高尚遠大な人物がいたと評価する。今日の人にはそれがない、富は積み上がっても仁義道徳は地を払った、と。渋沢は古い教育を懐かしんでいるのではない。知識は平民に開いたが、精神の鍛錬を開き損ねた、という診断である。これが章の核心にある「精神の向上を富と共に進めよ」へつながっていく。事業で成功した組織ほど、数字の伸びに比べて人の中身が痩せていないかを問う必要がある。

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