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論語と算盤 / 実業と士道・功利学の弊を芟除すべし

此の学派の師宗朱子その人が、唯大学者といふまでにて、実践躬行、口に道徳を説き、身に仁義を行ふ底の人物でなかつたから、林家の学風も、儒者は聖人の学説を講述する者、俗人は之を実地に行ふべきものとし、説く者と行ふ者との区別を生じ、之が結果として、孔孟の謂ゆる民即ち被治者階級に属する者は、唯だ命惟れ奉じて、一村一町の公役行事を怠らざれば足るといふ卑屈根性を馴致し、道徳仁義は治者の為すべきこと、百姓は政府より預りたる田畑を耕し、町人は算盤の目をせ〻つてさへ居れば能事了るといふ考へが、習ひ性をなして国家を愛するとか、道徳を重んずるとかいふ観念は全く欠乏したのである。鮑魚の市に入るものは自ら其の臭を知らずといへば、斯る数百年の悪風に養はれ、謂ゆる糞厮の臭きを忘れたるものを薫化し、陶冶し、天晴有道の君子的人物となすは、固より容易のことでは無いのに、欧米の新文明の輸入は、此の道義的観念の欠乏に乗じ、翕然として功利の科学に向はしめ、愈〻其の悪風を助長すること〻なつた。

書き下し

この学派の師宗朱子その人が、ただ大学者というまでにて、実践躬行、口に道徳を説き、身に仁義を行う底の人物でなかったから、林家の学風も、儒者は聖人の学説を講述する者、俗人はこれを実地に行うべきものとし、説く者と行う者との区別を生じ、これが結果として、孔孟のいわゆる民すなわち被治者階級に属する者は、ただ命これ奉じて、一村一町の公役行事を怠らざれば足るという卑屈根性を馴致し、道徳仁義は治者のなすべきこと、百姓は政府より預りたる田畑を耕し、町人は算盤の目をせせってさえおれば能事了るという考えが、習い性をなして国家を愛するとか、道徳を重んずるとかいう観念は全く欠乏したのである。鮑魚の市に入るものは自らその臭を知らずといえば、かかる数百年の悪風に養われ、いわゆる糞厮の臭きを忘れたるものを薫化し、陶冶し、あっぱれ有道の君子的人物となすは、もとより容易のことでは無いのに、欧米の新文明の輸入は、この道義的観念の欠乏に乗じ、翕然として功利の科学に向かわしめ、いよいよその悪風を助長することとなった。

現代語訳

この学派の祖師である朱子その人が、ただ大学者であるというだけで、自ら実践し、口で道徳を説き、身をもって仁義を行うような人物ではなかったから、林家の学風も、儒者は聖人の学説を講じ述べる者、俗人はそれを実地に行うべき者として、説く者と行う者との区別を生じた。その結果として、孔子や孟子のいう民、つまり治められる階級に属する者は、ただ命令を奉じ、一村一町の公の務めや行事を怠らなければそれでよいという卑屈な根性を身につけ、道徳や仁義は治める者のすべきこと、百姓は政府から預かった田畑を耕し、町人は算盤の目をはじいてさえいれば務めは果たしたことになるという考えが、習い性となって、国家を愛するとか道徳を重んじるとかいう観念はまったく欠けてしまったのである。塩漬けの魚の店に入った者は、自分ではその臭いに気づかなくなると言うように、こうした数百年の悪い風習の中で育ち、いわば便所の臭さを忘れてしまった者を感化し、鍛え上げて、立派な道を備えた君子のような人物にするのは、もとより容易なことではない。それなのに欧米の新しい文明の輸入は、この道義の観念の欠乏につけ込んで、人々をこぞって功利の科学へと向かわせ、ますますその悪風を助長することになった。

解説

渋沢の朱子批判は手厳しい。朱子は大学者ではあったが、自ら道徳を実践する人ではなかった、だから林家の学風も、説く者と行う者を分けてしまった、と。この評価には異論もあろうが、渋沢が問題にしているのは学説そのものより、その帰結である。民は命令に従い、公役を怠らなければよい。百姓は田を耕し、町人は算盤をはじいていればよい。そう扱われるうちに卑屈な根性が習い性となり、国を愛する心も道徳を重んじる心も失われた。引かれる「鮑魚の肆に入るが如し」は『孔子家語』の言葉で、臭い魚の店に長くいると臭いに気づかなくなる、悪い環境に染まる喩えである。そこへ欧米の功利の学が入ってきて、道義の空白につけ込んだ。論語と算盤を一つにせよという渋沢の主張は、説く者と行う者の分断を終わらせようとする試みでもあった。

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