論語と算盤 / 実業と士道・文明人の貪戻
翻つて我国の商工業を見るに、多くは不統一にして振はず、殊に戦乱の影響を受け、生糸の値は下落し、綿糸綿布の販路は渋滞し、総じて取引は萎靡し、有価証券の価は下落し、新たなる事業は起らざるの状態にある、併し早晩是等は恢復することも予想に難くないのであるから、此際一時の困難は堪へ難くとも、当業者は大に勇気を起さねばならぬ所である、又一方には此の事変は大に乗ぜざるべからざる好時機と思ふ、今日我が実業家は目前の不景気に畏縮するやうであるけれども、其れは甚だ無気力の行為である、唯その著目を誤らぬやうにして戦中十分なる研究を積み、漸次実物の効果のあるやうに努めて行きたいのである、殊に支那に対する商工業の如きは、境は接近し居る、人情風俗共に欧米人に比すれば縁故最も深いのである、然るに其の関係に於ては、往々にして他列強に比して大に遜色あるは実に心細い極みである、
書き下し
翻って我が国の商工業を見るに、多くは不統一にして振るわず、ことに戦乱の影響を受け、生糸の値は下落し、綿糸綿布の販路は渋滞し、総じて取引は萎靡し、有価証券の価は下落し、新たなる事業は起こらざるの状態にある。しかし早晩これらは恢復することも予想に難くないのであるから、この際一時の困難は堪え難くとも、当業者は大いに勇気を起こさねばならぬ所である。また一方にはこの事変は大いに乗ぜざるべからざる好時機と思う。今日我が実業家は目前の不景気に畏縮するようであるけれども、それははなはだ無気力の行為である。ただその着目を誤らぬようにして戦中十分なる研究を積み、漸次実物の効果のあるように努めて行きたいのである。ことに支那に対する商工業のごときは、境は接近している。人情風俗ともに欧米人に比すれば縁故最も深いのである。しかるにその関係においては、往々にして他列強に比して大いに遜色あるは実に心細い極みである。
現代語訳
振り返って我が国の商工業を見ると、多くはまとまりがなく振るわない。とくに戦乱の影響を受けて、生糸の値は下がり、綿糸や綿布の販路は滞り、総じて取引はしぼみ、有価証券の値は下がり、新しい事業は起こらない状態にある。しかし遅かれ早かれこれらが回復することも予想に難くないのだから、この際、一時の困難は耐えがたくとも、業界の人々は大いに勇気を奮い起こさなければならない。また一方で、この事変は大いに乗じるべき好機だと思う。今日わが実業家は目の前の不景気に縮こまっているようだが、それははなはだ無気力なふるまいである。ただ目のつけどころを誤らないようにして、戦争中に十分な研究を積み、しだいに実際の成果が上がるよう努めていきたいのである。とくに中国に対する商工業などは、国境は近く、人情や風俗も欧米人に比べれば縁が最も深い。それなのにその関係において、しばしば他の列強に比べて大きく見劣りしているのは、まことに心細い限りである。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』実業と士道・文明人の貪戻吾人はすべからく進んで支那の富源を開発し、その産業を進め、その販路を拡めて、通商上の利益を増加するように心掛けねばならぬ。我が国民の今日まで支那に対する商工業経営の態度を見るに、とかく個々別々であって、その間に少しも聯絡がない。ドイツの政治経済機関が統一して密接な関係を保っているのを見るにつけても、我が国民がこの歴史的においても、はたまた人種的においても、幾多の便宜を有する国柄なるにかかわらず、彼らの後えに瞠若たるようではならぬ。そしてこの覚悟は特に我が青年に対して最も望ましき所である。どうか今日の青年諸氏はかかる所に注目して力を入れてもらいたいのである。
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『論語と算盤』実業と士道・文明人の貪戻総じて学術技芸には能う限りの保護と便利とを与え、商工業は常に政治兵備と相聯絡し、中央銀行のごときも力を尽して商工業の便宜、資金の融通を計るというように、いかに彼ら上下一致して富国に従事しているかが窺知し得られる。またその学問においても化学、発明、技術、精妙、実に行き届くことは一通りではない。それは今回の戦乱のために、遠き我が国のごときをして、薬品染料等の欠乏に窮せしめたる事実に見るも、彼の国の力が世界の隅々まで及んでいることが分かる。ゆえに自国の拡大のみを企図する貪戻心は実に厭うべきであるが、官民一致その国の富強を勉むるの努力は感服の外はないのである。
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『論語と算盤』理想と迷信・道理ある希望を持て戦争して負けては困るが、ただ国力を挙げて戦争にのみ奔るということは王道に適するものではない。今日の時局に対して我々はそのような事まで心配せぬでもよい訳であるが、これから先の商工業はいかにしたらよかろうか、平和が克復したらその後の実業界はいかになるかというような事については、意想外なる変化を生じて、中には悪いと思ったことが善くなり、善いと思うたことが悪くもなろうから、今日から臆断は出来ない。しかし人は未来の事に向かってぜひとも理想は持つべきものであるから、たとい違却するとも一定の主義によって行うというようなことが無ければならぬ。つまりよく思いつまびらかに考えて事に当たれば、必ず過ちは少ないものである。戦争のごとき事変の勃発には、かつて想像したものに違却を生ずることはあるが。
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『論語と算盤』理想と迷信・道理ある希望を持ていわんやかかる大戦に際しては、将来どう変化するだろうかという予想は、最も慎思熟慮を要することと思う。その経営せらるる事業に応じて宜しきを制して行くということは必要だろうと思うが、これを処するについてぜひ一つ守らなければならぬことは、前にも述べた商業道徳である。約すれば信の一字である。これがご同様実業者に健全に行われて行ったならば、私は日本の実業界の富はさらに増大して、同時に人格も大いに進むであろうと思う。単に時局についてのみ希望する訳ではないが、かかる時機は別して変化が多いことを予想すると、お互いに負担している職分から考えたら、宜しきを制することが出来るであろうと思うのである。
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『論語と算盤』実業と士道・文明人の貪戻いずれの国家においても、自国の商工業を発達せしめんとするには、海外に我が国産の販路を求め、人口の増殖するにおいては領土を拡むることを講ずるのみならず、様々なる策略をもって自己の勢力の増大を図るのである。現に欧州列強が五大州に雄飛している所以は、全くこれらの事情によるものであって、優越なる地位を占むるものは、特に優越なる国家と称せらるるのである。かのドイツ皇帝今回の行動のごとき、この点より企図せられたものであると思われる。従来皇帝が内地の殖産に、海外の殖民に留意せらるることは容易ならざるものにて、もしも少しくその点について注意するならば、何人といえども、皇帝がなにゆえにかくまで仔細に心を労せられるかということを感ぜずにはいられまい。例えば、英仏に対する商工業の競争はもちろん、日露戦後、日本雑貨が各地に歓迎さるるを見れば、直ちにこれを模造する。
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『論語と算盤』成敗と運命・細心にして大胆なれ世界の大勢は日に月に動いて競争は激甚となり、文物は日進月歩の有様であるが、我が国は不幸にして久しい間鎖国の状態にあったので、世界の趨勢に後れた。開国以来たとい列国を驚異せしむるほどの急速の進歩をなしたとは言え、万般の事物が彼に後れていることは争われぬ。すなわち後進国の状態を免れないのである。ゆえにかの先進国と競争し角逐し、さらにこれを凌駕して行こうとするには、彼に倍する努力をもって進まねばならぬ。多少にても個人の向上を助け、国運を進転せしむる事には、全力を傾倒して進取する勇猛心を必要とするのである。しからば従来の事業を後生大事に保守し、あるいは過失失敗を虞れて逡巡するごとき弱い気力では、到底国運の退嬰を来たさずにはおらぬのである。是非とも深くこの点を考えて、大いに計画もし発達もして、真実の価値ある一等国と成らねばならぬ。溌溂たる進取の気力を養うことはもちろん、かつ発揮する必要を痛切に感ずることは、現時において特更である。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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