論語と算盤 / 算盤と権利・仁に当つては師に譲らず
独り此の一句ばかりでなく、広く論語の各章を渉猟すれば、これに類した言葉は尚ほ沢山に見出すことが出来るのである。
書き下し
独りこの一句ばかりでなく、広く論語の各章を渉猟すれば、これに類した言葉はなおたくさんに見出すことが出来るのである。
現代語訳
この一句だけでなく、広く論語の各章を読み渡れば、これに類した言葉はまだたくさん見出すことができるのである。
解説
章の結びの一文である。「この一句」とは、この章で掲げた「仁に当つては師に譲らず」(論語衛霊公篇)を指す。道理の正しいところでは師にすら譲らなくてよいというこの句に、渋沢は論語の権利観念の証拠を見た。そして、それは一句に限らないと言い添える。たとえば論語には「三軍も帥を奪ふべきなり、匹夫も志を奪ふべからざるなり」(子罕篇)という句もあり、一人の人間の志は大軍の力でも奪えないとする。「義を見て為さざるは勇無きなり」(為政篇)という句も、正しいと信じることを貫く主体を前提にしている。渋沢の言う権利とは、法律上の請求権というより、道理に立って自分の主張を通す人格の強さのことである。論語を服従の書と見るか、主体の書と見るかで、読み方は大きく変わる。渋沢は後者の読み方を示して章を閉じている。
関連する章句
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず論語にも明らかに権利思想の含まれていることは、孔子が「仁に当たっては師に譲らず」と言った一句、これを証して余りあることと思う。道理正しき所に向かってはあくまでも自己の主張を通してよい、師は尊敬すべき人であるが、仁に対してはその師にすら譲らなくてもよいとの一語中には、権利観念が躍如としているではないか。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず世人はややもすれば、論語主義には権利思想が欠けている、権利思想なき者は文明国の完全なる教えとするに足らぬと論ずるものが有るようだが、これは論ずる人の誤想謬見と言わねばならぬ。なるほど、孔子教を表面から観察したならあるいは権利思想に欠けているように見えるかも知れぬ。基督教を精髄とせる泰西思想に比較すれば、必ず権利思想の観念が薄弱であるがごとく思われるであろう。しかしながら余はかくのごとき言をなす人は、いまだもって真に孔子を解した者ではないと思う。
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論語・衛霊公篇子曰く、仁に当たりては、師にも譲らず。
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『論語と算盤』理想と迷信・人生観の両面換言すれば、それが孔子の処世上の覚悟であるが、余もまた人生の意義はかくあるべき筈だと思う。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず論語主義は己を律する教旨であって、人はかくあれ、かくありたいというように、むしろ消極的に人道を説いたものである。そしてこの主義を押し拡めて行けば、ついには天下に立てるようにはなるが、孔子の真意を忖度すれば、初めから宗教的に人を教えるために説を立てようとは考えてなかったらしいけれども、孔子には一切教育の観念が無かったとは言われぬ。もし孔子をして政柄を握らしめたならば、善政を敷き国を富まし、民を安んじ、王道を十分に押し広める意志であったろう。換言すれば、初めは一の経世家であった。その経世家として世に立つ間に、門人から種々雑多のことを問われ、それについて一々答えを与えた。門人と言っても各種の方面に関係を持った人の集合であるから、その質問も自ずから多様多岐にわたり、政を問われ、忠孝を問われ、文学、礼楽を問われた。この問答を集めたものがやがて論語二十篇とはなったのである。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らずしかし基督教に説く所の「愛」と論語に教うる所の「仁」とはほとんど一致していると思われるが、そこにも自動的と他動的との差別はある。例えば、耶蘇教の方では「己の欲する所を人に施せ」と教えてあるが、孔子は「己の欲せざる所を人に施すなかれ」と反対に説いているから、一見義務のみにて権利観念が無いようである。しかし両極は一致すと言える言のごとく、この二者も終局の目的はついに一致するものであろうと考える。
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