論語と算盤 / 算盤と権利・金門公園の掛札
私が初めて欧羅巴へ旅行したのは旧幕府時代であつた、慶応三年に仏蘭西に行つて、約一年も居り、其他の国々も巡𢌞して、一と当りの事情は知るを得たけれども、不幸にして其時には亜米利加に旅行をしなかつたが、明治三十五年(西暦一千九百二年)に初めて亜米利加へ行つた、曾て其の土地は蹈まぬでも、十四五歳の時から亜米利加なるものを知り、其の外交の関係に就て特に注目し、且つ従来の国交が甚だ適順に進んで居たので、亜米利加と云ふ音は、常に自分の耳を楽しましめるものであつた、而して其の土地を初めて見たのであるから、事々物々実に私の心を喜ばして、幾んど我が故郷へでも帰つたやうな感じを持つた、最初に桑港へ上陸して様々なる事物に接触して、深く興味を持つて居つた、所が、唯一つ大に私の心を刺戟したのは、金門公園の水泳場へ行つた時に、其の水泳場の掛札に『日本人泳ぐべからず』といふことが書いてあつた、これは私の如き亜米利加に対して愉快なる感じを持つて居る身には、特に奇異の思ひをなさしめた、
新字:私が初めて欧羅巴へ旅行したのは旧幕府時代であつた、慶応三年に仏蘭西に行つて、約一年も居り、其他の国々も巡𢌞して、一と当りの事情は知るを得たけれども、不幸にして其時には亜米利加に旅行をしなかつたが、明治三十五年(西暦一千九百二年)に初めて亜米利加へ行つた、曽て其の土地は蹈まぬでも、十四五歳の時から亜米利加なるものを知り、其の外交の関係に就て特に注目し、且つ従来の国交が甚だ適順に進んで居たので、亜米利加と云ふ音は、常に自分の耳を楽しましめるものであつた、而して其の土地を初めて見たのであるから、事々物々実に私の心を喜ばして、幾んど我が故郷へでも帰つたやうな感じを持つた、最初に桑港へ上陸して様々なる事物に接触して、深く興味を持つて居つた、所が、唯一つ大に私の心を刺戟したのは、金門公園の水泳場へ行つた時に、其の水泳場の掛札に『日本人泳ぐべからず』といふことが書いてあつた、これは私の如き亜米利加に対して愉快なる感じを持つて居る身には、特に奇異の思ひをなさしめた、
書き下し
私が初めてヨーロッパへ旅行したのは旧幕府時代であった。慶応三年にフランスに行って、約一年もおり、そのほかの国々も巡回して、一と当たりの事情は知るを得たけれども、不幸にしてその時にはアメリカに旅行をしなかったが、明治三十五年(西暦一千九百二年)に初めてアメリカへ行った。かつてその土地は踏まぬでも、十四五歳の時からアメリカなるものを知り、その外交の関係について特に注目し、かつ従来の国交が甚だ適順に進んでいたので、アメリカという音は、常に自分の耳を楽しましめるものであった。そしてその土地を初めて見たのであるから、事々物々実に私の心を喜ばして、ほとんど我が故郷へでも帰ったような感じを持った。最初に桑港へ上陸して様々なる事物に接触して、深く興味を持っておった。ところが、ただ一つ大いに私の心を刺激したのは、金門公園の水泳場へ行った時に、その水泳場の掛札に「日本人泳ぐべからず」ということが書いてあった。これは私のごときアメリカに対して愉快なる感じを持っている身には、特に奇異の思いをなさしめた。
現代語訳
私が初めてヨーロッパへ旅行したのは旧幕府の時代であった。慶応三年(一八六七年)にフランスへ行って一年ほど滞在し、そのほかの国々も巡って、ひととおりの事情は知ることができたけれども、あいにくそのときはアメリカへは旅行しなかった。明治三十五年(一九〇二年)に、初めてアメリカへ行ったのである。それまでその土地を踏んだことはなかったが、十四、五歳のころからアメリカというものを知り、その外交関係にとくに注目していたし、また従来の国交がたいへん順調に進んでいたので、アメリカという響きは、いつも私の耳を楽しませるものであった。そのアメリカの土地を初めて見たのであるから、見るもの聞くものすべてが実に私の心を喜ばせ、ほとんど故郷へでも帰ったような気持ちになった。最初にサンフランシスコに上陸し、さまざまな物事に触れて、深く興味を持っていた。ところが、ただ一つ大いに私の心を刺激したのは、金門公園の水泳場へ行ったとき、その水泳場の掛札に「日本人泳ぐべからず」と書いてあったことである。これは、私のようにアメリカに対して愉快な感情を持っている身には、とりわけ奇異な思いをさせるものであった。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』算盤と権利・金門公園の掛札当時桑港におった日本の領事上野季三郎という人に、何故かかる掛札があるかと問うたら、それはアメリカに来ている移住民の青年等が、公園の水泳場に行って、アメリカの婦人が泳いでいるのを、潜行して足を引っ張る、そういう悪戯が多いために、右の掛札を掛けられたのである、と説明した。その時に私は大いに驚いて、それは日本の青年の不作法が原因をなしている、しかしながらかく些細なことでも、とにかく差別的の待遇を受けるということは、日本として心苦しい話だ、こういう事が段々増長して行くと、ついには両国の間にいかなる憂うべき事が生ずるかも知れぬ。さなきだに東西洋の人種間には、種族の関係、宗教の関係というものは、かくのごとく親しんでいるとも、いまだ全く融和したとは言えないように思うのに、そういう事が現れたのは真に憂うべきことである。領事に職を奉ずる人は、充分御注意をして欲しいものだと言って別れたが、これが三十五年の六月の初めであった。ついでシカゴ、ニューヨーク、ボストン、フィラデルフィアを経てワシントンに行った。
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『論語と算盤』算盤と権利・金門公園の掛札私はこの時に、自分は銀行家であって美術家ではない、また軍人でないから軍事も知らない、しかるに閣下は私に向かって軍事と美術だけをお褒め下すったが、次回に私が閣下にお目に掛かる時には、日本の商工業に対して御賞讃のお言葉のあるように、不肖ながら私は国民を率いて努めるつもりであると答えた。
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『論語と算盤』人格と修養・商業に国境なし私はその企図の至極機宜に適するものと思って、我々も充分に助力するから、在米諸君も大いに努めるようにしたらよかろうと言って、渡辺金蔵氏に私が明治三十五年に金門公園において感ぜしことを話して、会長たる牛島氏を初め、そのほかの会員にもよく注意してくれということを伝言した。それが明治四十一年であったと思う。
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『論語と算盤』人格と修養・商業に国境なし明治三十六年桑港において学童問題というものが突発した。それから後も次第に日米間の国交が薄くなるような傾向を生じたというのは、日本人が薄くするのではなくして、アメリカのある方面の人が、段々に日本を嫌うという有様を生じた。さてそういう有様を生ずると、あたかも明治三十五年に桑港の金門公園において見た所の「日本人泳ぐべからず」の事柄が段々盛んに進んで来るようになった。アメリカに対して特殊の印象を持ってる私、ことに実業界の一人として、また日本全体の実業界に対して深く心神を労している身であるから、国交上に大なる憂いを抱いた。その後桑港にいる日本人間に在米日本人会なるものを組織した。その会長の牛島謹爾氏が、特に渡辺金蔵という人を日本に送られて、私に請求せらるるには、カリフォルニア州においてアメリカ人がとかく日本人を嫌うという感情を改善せしむるために、在米日本人会を企てたのである。ついては本国(日本)においてもその意味を理解して、大いに賛同してくれるようにということであった。
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『論語と算盤』実業と士道・天然の抵抗を征服せよさてそのごとく世界は広大無辺のものなれば、とても我々の人智では容易にこれを究むることのできるもので無いとしていたのである。しかるに文明の進歩とともに交通機関が発達して来たために、地球の面積は漸次に減縮せられ、最近の半世紀間においては、ほとんど隔世の感がある。顧みれば千八百六十七年、ナポレオン第三世が在位の時に当たり、フランスのパリに世界大博覧会の開かるるに際し、我が徳川幕府よりは将軍の親弟徳川民部大輔を特命使節として差遣せられ、余は随行員の一人として渡欧したのであるが、当時一行の者は横浜よりフランス郵船に乗りインド洋および紅海を経てスエズの地峡に到りしに、フランス人レセップス氏の経営に係る同所開鑿の一大工事は、すでに着手せられていたけれども、いまだ成就しなかったがため、一行は船を棄てて地峡に上り、鉄道によりてエジプトを横断し、「カイロー」を経て「アレキサンドリヤ」に出で、再び乗船して地中海を航し、横浜出帆以来五十五日にして、初めてフランスの「マルセーユ」に到着したのであった。かくて翌年の冬期に帰朝する時にそこを過ぎたが、なお運河の工事は竣成の運びに至らなかった。
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『論語と算盤』理想と迷信・発展の一大要素海外に向かって発展するには、いかなる方面を択ぶべきかと言えば、やはり一番利益のある所に赴くということは、自然の趨勢であると思う。気候もよし、地味も良くて、その土地がよく人を容れ、農業に商業に、すべての事のやりよい所を択ぶのが人情である。ここにおいて私共の切に憂うるのは、北米合衆国と我が邦との関係である。今日のように紛議を醸しているのは、お互い実に遺憾に堪えない。
人生の答えは、ぜんぶ古典に書いてあった。
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