論語と算盤 / 算盤と権利・仁に当つては師に譲らず
然るに基督は之に反し、全く権利思想に充実された教を立てた、元来猶太、埃及等の国風として予言者といふやうな者の言を信じ、従つて其種の人も多いのであつたが、基督の祖先たるアブラハムより基督に至るまで殆ど二千年を経て居る間に、モーゼとかヨハネとかいふ幾多の予言者が出て、或は聖王が出て世を治めるとか、或は王様同様に世を率ゐて立つ所の神が出るとか言ひ伝へて居た、此時に方つて基督は生れたのであつたが、国王は予言者の言を信じ、自己に代つて世を統ぶる者に出られては大変だと云ふ所から、近所の子供を皆殺させたけれども、基督は母マリヤに連れられて他所に行つた為に此難を免れた、耶蘇教は実に斯の如き誤夢想的の時代に生れた宗教であるから、従つて其の教旨が命令的で又権利思想も強いのである。
書き下し
しかるに基督はこれに反し、全く権利思想に充実された教えを立てた。元来猶太、埃及等の国風として予言者というような者の言を信じ、したがってその種の人も多いのであったが、基督の祖先たるアブラハムより基督に至るまでほとんど二千年を経ている間に、モーゼとかヨハネとかいう幾多の予言者が出て、あるいは聖王が出て世を治めるとか、あるいは王様同様に世を率いて立つ所の神が出るとか言い伝えていた。この時に当たって基督は生まれたのであったが、国王は予言者の言を信じ、自己に代わって世を統ぶる者に出られては大変だという所から、近所の子供を皆殺させたけれども、基督は母マリヤに連れられて他所に行ったためにこの難を免れた。耶蘇教は実にかくのごとき誤夢想的の時代に生まれた宗教であるから、したがってその教旨が命令的でまた権利思想も強いのである。
現代語訳
ところがキリストはこれとは反対に、まったく権利思想に満ちた教えを立てた。もともとユダヤやエジプトなどの国柄として、予言者というような者の言葉を信じ、したがってその種の人も多かったのであるが、キリストの祖先であるアブラハムからキリストに至るまでほとんど二千年を経るあいだに、モーセやヨハネといった多くの予言者が現れ、聖王が出て世を治めるとか、王と同じように世を率いて立つ神が出るとか言い伝えていた。そういうときにキリストは生まれたのであったが、国王は予言者の言葉を信じ、自分に代わって世を統べる者に現れられては大変だというので、近隣の子どもを皆殺しにさせた。けれどもキリストは母マリアに連れられて他の土地へ行っていたため、この難を免れた。キリスト教はまことにこのような誤った夢想に満ちた時代に生まれた宗教であるから、その教えが命令的で、また権利思想も強いのである。
解説
関連する章句
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず基督や釈迦は始めより宗教家として世に立った人であるに反し、孔子は宗教をもって世に臨んだ人でないように思われる。基督や釈迦とは全然その成立を異にしたものである。ことに孔子の在世時代における支那の風習は、何でも義務を先にし、権利を後にする傾向を帯びた時であった。かくのごとき空気の中に成長し来った孔子をもって、二千年後の今日、全く思想を異にした基督に比するは、既に比較すべからざるものを比較するのであるから、この議論は最初よりその根本を誤ったものと言うべく、両者に相違を生ずることはもとより当然の結果たらざるを得ないのである。しからば孔子教には全然権利思想を欠いているであろうか。以下少しく余が所見を披瀝して世の蒙を啓きたいと思う。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず世人はややもすれば、論語主義には権利思想が欠けている、権利思想なき者は文明国の完全なる教えとするに足らぬと論ずるものが有るようだが、これは論ずる人の誤想謬見と言わねばならぬ。なるほど、孔子教を表面から観察したならあるいは権利思想に欠けているように見えるかも知れぬ。基督教を精髄とせる泰西思想に比較すれば、必ず権利思想の観念が薄弱であるがごとく思われるであろう。しかしながら余はかくのごとき言をなす人は、いまだもって真に孔子を解した者ではないと思う。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らずそして余は、宗教としてはたまた経文としては耶蘇の教えがよいのであろうが、人間の守る道としては孔子の教えがよいと思う。これはあるいは余が一家言たるの嫌いがあるかも知れぬが、ことに孔子に対して信頼の程度を高めさせる所は、奇蹟が一つもないという点である。基督にせよ、釈迦にせよ、奇蹟がたくさんにある。耶蘇は磔せられた後三日にして蘇生したというがごときは明らかに奇蹟ではないか。もっとも優れた人のことであるから、必ずそういうことは無いと断言も出来ず、それらは凡智の測り知らざる所であると言わねばなるまいが、しかしこれを信ずれば迷信に陥りはすまいか。かかる事柄を一々事実と認めることになると、智は全く晦まされて、一点の水が薬品以上の効を奏し、焙烙の上からの灸が効き目あるということも事実として認めなくてはならなくなるから、そのよって来る所の弊は甚だしいものである。日本も文明国だと言われていながら、いまだ白衣の寒詣や、不動の豆撒が依然として消滅せぬのは、迷信の国だという譏りを受けても仕方がない。しかるに孔子にこの忌むべき一条の皆無なのは余の最も深く信ずる所以で、またこれより真の信仰は生ずるであろうと思う。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らずしかし基督教に説く所の「愛」と論語に教うる所の「仁」とはほとんど一致していると思われるが、そこにも自動的と他動的との差別はある。例えば、耶蘇教の方では「己の欲する所を人に施せ」と教えてあるが、孔子は「己の欲せざる所を人に施すなかれ」と反対に説いているから、一見義務のみにて権利観念が無いようである。しかし両極は一致すと言える言のごとく、この二者も終局の目的はついに一致するものであろうと考える。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず論語にも明らかに権利思想の含まれていることは、孔子が「仁に当たっては師に譲らず」と言った一句、これを証して余りあることと思う。道理正しき所に向かってはあくまでも自己の主張を通してよい、師は尊敬すべき人であるが、仁に対してはその師にすら譲らなくてもよいとの一語中には、権利観念が躍如としているではないか。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず論語主義は己を律する教旨であって、人はかくあれ、かくありたいというように、むしろ消極的に人道を説いたものである。そしてこの主義を押し拡めて行けば、ついには天下に立てるようにはなるが、孔子の真意を忖度すれば、初めから宗教的に人を教えるために説を立てようとは考えてなかったらしいけれども、孔子には一切教育の観念が無かったとは言われぬ。もし孔子をして政柄を握らしめたならば、善政を敷き国を富まし、民を安んじ、王道を十分に押し広める意志であったろう。換言すれば、初めは一の経世家であった。その経世家として世に立つ間に、門人から種々雑多のことを問われ、それについて一々答えを与えた。門人と言っても各種の方面に関係を持った人の集合であるから、その質問も自ずから多様多岐にわたり、政を問われ、忠孝を問われ、文学、礼楽を問われた。この問答を集めたものがやがて論語二十篇とはなったのである。
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