論語と算盤 / 算盤と権利・仁に当つては師に譲らず
而して詩経を調べ、書経を註し易経を集め、春秋を作りたる抔は晩年のことで、福地桜痴居士が曰へる如く、六十八歳より以後の五年間を、纔に布教的に学事に心を用ゐたらしく見える、されば孔子は権利思想の欠けたる社会に人となり、而も他人を導く宗教家として世に立つた訳でないからその教の上に権利思想が劃然として居らぬのは已むを得ないのである。
書き下し
そして詩経を調べ、書経を註し易経を集め、春秋を作りたるなどは晩年のことで、福地桜痴居士が言えるごとく、六十八歳より以後の五年間を、わずかに布教的に学事に心を用いたらしく見える。されば孔子は権利思想の欠けたる社会に人となり、しかも他人を導く宗教家として世に立った訳でないからその教えの上に権利思想が劃然としておらぬのはやむを得ないのである。
現代語訳
そして、詩経を調べ、書経に注をつけ、易経を集め、春秋を作ったことなどは晩年のことであって、福地桜痴居士(福地源一郎)が言ったように、六十八歳以後の五年間だけ、わずかに教えを広めるかたちで学問に心を用いたらしく見える。だから孔子は、権利思想の欠けた社会で人となり、しかも他人を導く宗教家として世に立ったわけではないのだから、その教えのうえに権利思想がはっきりと示されていないのは、やむをえないことなのである。
解説
孔子が経書の整理に取り組んだのは晩年であり、それも福地桜痴の言うように六十八歳から後のわずか五年ほどだった、と渋沢は述べる。孔子は諸国を遍歴した後、六十八歳で魯に帰り、七十三歳で没したと伝えられる。福地桜痴(源一郎)は渋沢と同じく幕臣の出で、明治には記者・劇作家として知られた人物である。詩書易春秋の編纂を孔子に帰する説は伝統的な見方であり、渋沢もそれに従っている。この段の結論は、権利思想が論語に「劃然として」いない、つまり表立ってはっきり書かれていない理由の説明である。無いのではなく、時代と立場のために前面に出ていないだけだ、という含みがある。これが論語の中から権利観念の証拠を探す論の準備になる。何かが見えないとき、無いのか、見えにくい所にあるのかを分けて考える姿勢である。
関連する章句
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず論語にも明らかに権利思想の含まれていることは、孔子が「仁に当たっては師に譲らず」と言った一句、これを証して余りあることと思う。道理正しき所に向かってはあくまでも自己の主張を通してよい、師は尊敬すべき人であるが、仁に対してはその師にすら譲らなくてもよいとの一語中には、権利観念が躍如としているではないか。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず世人はややもすれば、論語主義には権利思想が欠けている、権利思想なき者は文明国の完全なる教えとするに足らぬと論ずるものが有るようだが、これは論ずる人の誤想謬見と言わねばならぬ。なるほど、孔子教を表面から観察したならあるいは権利思想に欠けているように見えるかも知れぬ。基督教を精髄とせる泰西思想に比較すれば、必ず権利思想の観念が薄弱であるがごとく思われるであろう。しかしながら余はかくのごとき言をなす人は、いまだもって真に孔子を解した者ではないと思う。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず基督や釈迦は始めより宗教家として世に立った人であるに反し、孔子は宗教をもって世に臨んだ人でないように思われる。基督や釈迦とは全然その成立を異にしたものである。ことに孔子の在世時代における支那の風習は、何でも義務を先にし、権利を後にする傾向を帯びた時であった。かくのごとき空気の中に成長し来った孔子をもって、二千年後の今日、全く思想を異にした基督に比するは、既に比較すべからざるものを比較するのであるから、この議論は最初よりその根本を誤ったものと言うべく、両者に相違を生ずることはもとより当然の結果たらざるを得ないのである。しからば孔子教には全然権利思想を欠いているであろうか。以下少しく余が所見を披瀝して世の蒙を啓きたいと思う。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず論語主義は己を律する教旨であって、人はかくあれ、かくありたいというように、むしろ消極的に人道を説いたものである。そしてこの主義を押し拡めて行けば、ついには天下に立てるようにはなるが、孔子の真意を忖度すれば、初めから宗教的に人を教えるために説を立てようとは考えてなかったらしいけれども、孔子には一切教育の観念が無かったとは言われぬ。もし孔子をして政柄を握らしめたならば、善政を敷き国を富まし、民を安んじ、王道を十分に押し広める意志であったろう。換言すれば、初めは一の経世家であった。その経世家として世に立つ間に、門人から種々雑多のことを問われ、それについて一々答えを与えた。門人と言っても各種の方面に関係を持った人の集合であるから、その質問も自ずから多様多岐にわたり、政を問われ、忠孝を問われ、文学、礼楽を問われた。この問答を集めたものがやがて論語二十篇とはなったのである。
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『論語と算盤』算盤と権利・仁に当つては師に譲らず独りこの一句ばかりでなく、広く論語の各章を渉猟すれば、これに類した言葉はなおたくさんに見出すことが出来るのである。
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史記 孔子世家「徳の脩まらざる、学の講ぜざる、義を聞きて徙る能はざる、不善改むる能はざる、是れ吾が憂ひなり」と。人をして歌はしめ、善なれば、則ち之を復せしめ、然る後に之に和す。子は怪・力・乱・神を語らず。子貢曰く、「夫子の文章は、得て聞くべきなり。夫子の天道と性命とを言ふは、得て聞くべからざるのみ」と。顔淵喟然として嘆じて曰く、「之を仰げば弥々高く、之を鑽れば弥々堅し。之を瞻れば前に在り、忽焉として後に在り。夫子は循循然として善く人を誘ふ、我を博むるに文を以てし、我を約するに礼を以てす、罷めんと欲すれども能はず。既に我が才を竭くすに、立つ所有りて、卓爾たるが如し。之に従はんと欲すと雖も、由る蔑きのみ」と。達巷党の人童子曰く、「大なるかな孔子、博く学びて名を成す所無し」と。子之を聞きて曰く、「我何をか執らん。御を執らんか、射を執らんか。我は御を執らん」と。牢曰く、「子云ふ『試ひられず、故に芸あり』と」。春、大野に狩す。叔孫氏の車子鉏商獣を獲たり、以て不祥と為す。仲尼之を視て曰く、「麟なり」と。之を取る。曰く、「河図を出さず、雒書を出さず、吾已んぬるかな」と。顔淵死す、孔子曰く、「天予を喪ぼせり」と。西狩して麟を見るに及び、曰く、「吾が道窮まれり」と。喟然として嘆じて曰く、「我を知る莫きかな」と。子貢曰く、「何為れぞ子を知る莫からん」と。子曰く、「天を怨みず、人を尤めず、下学して上達す、我を知る者は其れ天か」と。「其の志を降さず、其の身を辱めざるは、伯夷・叔斉か」と。「柳下恵・少連は志を降し身を辱めたり」と謂ふ。「虞仲・夷逸は隠居して放言し、行ひ清に中り、廃権に中る」と謂ふ。「我は則ち是に異なり、可も無く不可も無し」と。子曰く、「弗なるかな弗なるかな、君子は世を没して名の称せられざるを病む。吾が道行はれず、吾何を以てか自ら後世に見はさんや」と。乃ち史記に因りて春秋を作る、上は隠公に至り、下は哀公十四年に訖る、十二公なり。魯に拠り、周を親とし、殷を故とし、之を三代に運らす。其の文辞を約にして指博し。
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